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第5話

「いって……」 眩しい光が射し込む朝。 洗面台の水が切れた手のひらに染みて針を刺すように痛んだ。 ため息しか零れない。 『今日休みなら部屋の掃除をしておけ』 そう言い残して出て行った克彦をどんな目で見ていたのか、自分では分からない。 ただ、逃げ出すという選択肢は今の俺にはなくなっていた。 煙草の吸い殻、床に散らかった空き缶、乱雑に投げられた衣服。 掃除すべき場所は、かなりある。 「はぁ…………」 まずはゴミ捨てからだな。 気分の悪い体を無理やり起こし、棚から取り出した袋を大きく広げた。 その後数時間ほどで掃除を終えた俺は、家を飛び出し街へと向かっていた。 克彦が好きな食べ物を買って帰ろう。 俺の意思と言うより、そうしなければ機嫌を損ねて何されるか分からないからだ。 「あ……」 あの人、って。 喫茶店の前を素通りした俺の目に映りこんだのは、見覚えある天然パーマの黒髪だった。 花屋の前で入口の枠外に置かれた花を眺めているその男は、松本亮雅さんで間違いない。 誰に、あげるのだろう。 ……いや、彼が誰に花を渡そうと関係ない。 俺には関係のない事だと花屋を素通りしかけた時、「あんた、椎名か?」と聞き覚えのある声が俺の耳の奥に響いてきた。 「っ、おはようございます……」 運悪く松本さんに呼び止められる始末。 俺の存在なんて、この人の目にも止まらないと思っていたのに。 「おいおい〜、上司見つけたなら挨拶くらいしろよなぁ」 「……今、したんですが」 「違う、さっき素通りしようとしただろ?」 「それは……すいません、気づかなくて」 上司上司と自分の立場を主張してくるくせに、堅苦しい敬語は嫌いだと言うこの男。 正直、意味が分からない。 歳の割にこだわりが強すぎじゃないのか。 腹立たしさを若干覚えていた俺の視線に気づいたらしい、松本さんは目を細めてこちらを向く。 「顔、険しいぞー。せっかく綺麗な顔してんのに」 「あ、ちょっと手……やめてください」 「ははは、本当笑わないな」 「……」 笑う要素なんて、どこにもなかったじゃないか。 「……花、誰に買うんですか」 「ん? ああ、子供だよ。俺の」 「え?」 何を、考えていたのだろう。 微かに感じた心の闇、自分でもどうしてなのか理解ができなかった。 松本さんは既婚者なのか。 確かに、モテる顔ではあるし妻がいてもおかしくはない。 勝手に未婚だと思っていた自身が恥ずかしい。 「お子さん、いらっしゃるんですね……今おいくつですか」 「5歳だよ。やんちゃ坊だけど、意外と花が好きでなぁ。気になった花を買ってきてくれっていつも言うから、たまにここで花を買って帰るんだ」 「そう、なんですか。松本さん……見た目より、優しい方なんですね」 「おい、それ軽く悪口だろ。見た目よりっつーか、見た目通りな」 それを自分で言うところが鬱陶しくて敵わないんだよ。 言いかけたセリフはのみ込み、「それじゃあ俺は」と頭を下げてその場を離れようとした。 だが、「ちょっと待て」と手首をつかまれた状況反射でバッと手を引き剥がした。 「っ、……すい、ません」 「椎名、ちょっと来い」 「へ、あっ」 強引に手を引かれ、わけも分からないまま松本さんの後を追う。 切れた手の平が風に当たってジワリと傷んだ。 そして松本さんに触れられている手首から、徐々に熱を帯び始める。 俺がどういう人間なのか、この人は知らない。 だから平気でこんなことを。 「松本、さん、もう離してください……ッ」 なぜか見知らぬ美容院の方へと向かっていた松本さんを制止し、無理やり手を放した。 「ど、どこに行くんですか。手なんか、握って……」 「……お前の手、怪我してるだろ。ここ俺の友人が働いてっから処置してやろうと思っただけだよ」 「え……」 気づいて、いたのか。 変に意識してしまった自分は自ら恥を晒しにいくようなものだった。 髪をさわられ手を握られただけで過剰な反応をする俺に、怪訝な目を向けてくるのが普通だ。 何も聞いてこないし、平常通りの顔をする。 それが余計に、不安を煽ってくる。

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