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第8話
「やめッ……なにすんだよ、克彦……!」
ピクリとも動かなかった俺に激昴したのか、克彦に無理やり腕を引かれ寝室へと来てしまった。
ベッドの柔らかい布地にも不快感を覚えるほど、俺の脳は克彦に対する拒絶反応を示している。
「なあ優斗……明日の仕事は何時からだ」
「っ、そんなの……克彦に言う必要ないだろ」
「……やっぱりお前、男ができたんじゃねえだろうな」
「ち、違う。既婚者しかいないんだよっ」
「あぁそう」
手を出されるかもと身構えていたが、今の一言に興味をなくしたらしい。
ベッドを起き上がりリビングへ消えていく背を見て、全身が脱力する。
良かった……
職場にいる以上に緊迫感を覚えさせられる。
松本さんは、今頃奥さんと……
そのとき目頭にじわりと浮かんだ雫が、俺を混乱させた。
なんで、涙なんか。
兄にキツく当たられることなど、とっくに慣れてしまっていたはずなのに。
シフトが同じ。
少しの間だけこの地獄から解放されるかもしれない。
心の奥底でぼんやりと浮かぶ自身の考えに、俺は今までにないほどの失望を感じた。
____
家から駅までの距離は、徒歩30分、交通機関を使えば15分程だ。
職場は駅から徒歩10分。
外国人観光客の利用も多いらしいが、ほとんどは会社都合でやって来た公務員や地方から訪れた一般の観光客だそうだ。
「椎名、おはよ!」
「…………」
フロントを潜り事務所までの廊下を歩いていたら、見覚えのある男に声をかけられた。
確か、同期なのは覚えている。
誰だっけ。
「ちょっと、無視とかひどくない?」
「ごめん、誰」
「はぁぁっ? フロント志望の浅木俊太! 出勤初日にちょっと話しただろ!?」
「あ……そうだっけ」
「あぁぁーっ……今、一気に萎えた。おれの存在感ゼロかよ」
「話したって言っても、二言くらいだったじゃないか。……覚えてなかったのは、悪いけど」
この職場にはベラベラと喋る人間しかいないのか。
なんだか、疲れる……
「お前さぁ、そんなんじゃ彼女できんよ」
「そんな心配してないから」
「うわ、なんか今のムカついた。顔が良い奴はこれだからっ」
「……そういう浅木はどうなんだよ」
「いたよ、昨日別れたけど」
「は?」
聞くんじゃなかった、朝からこんな重い話。
「じゃあ俺、事務所行くから……」
「昼休! 付き合えよなぁ!」
冗談じゃない。
逃げるように事務所のドアを開けた瞬間、小太りの男とぶつかりそうになる。
「! すいません」
「ああ、すまない。ん? 君はもしかして、新入社員か?」
まだ会ったことのない男だったが、スーツ姿に胸ポケットの紋章バッジを見ると理解した。
「矢崎課長、ですか。先日入社した椎名優斗です」
「おぉ! やっぱり君か。名前を知ってくれているとは嬉しいよ!」
すいません、名札を見ました。
……とは言いづらい。
「10年も長くここに勤めているからね。何か聞きたくなったらいつでも聞きなさい」
「ありがとう、ございます」
不自然なほど満面の笑顔で去って行った課長。
ここは、皆個性が強い。
事務所に入ると他の事務員が2人先に出勤していた。
…………ん? なんだこれ。
あいさむを済ませて自分の席へと座ると、小さくカットされ2つに折り込まれたルーズリーフがデスク上にあった。
『朝は宴会場の大がかりな準備があるからパソコンシステムをいじっていてくれ』
そう書かれている。
どんなシステムがあるのか見て確認しろ、という意味だろう。
末尾にわざわざ印を押している松本さんの几帳面な一面に苦笑が漏れる。
「字、あんまり綺麗じゃないんだな……」
「悪かったな」
「ッ!? ま、松本さん……っ」
このタイミングのご本人登場には面を食らう。
珍しくオーバーにイスを立ち上がってしまい、目を合わせられない。
「おは、ようございます」
「おはようさん。共通システム、何となく分かったかぁ?」
ドカッと隣へ腰かけると、「あっつ」と手で仰ぎ始める。
夏場でもないのに。
「すいません、今来たばかりでなにも……」
「ああ、まだ8時半か。出勤するの早くねえ?」
「……それ、本気で言ってますか」
8時半に出勤しろと言ったのはどこのどいつだよ。
「こら、上司をそんな蔑むような目で見るなー」
「……」
子の親とは言え、このあやす様な言い方はまるで子ども扱いだ。
実際、そんなに歳も離れていないじゃないか。
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