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第10話

「椎名、箱の表面に絵があるだろ。椿の花が右にくるように置いていけ。それから笑顔、会議の昼食と言えどスタッフの印象は重要だ。できないなら家で練習してこい」 「っはい、すいません」 事務所やプライベートで見た松本さんとはまるで別人のようだった。 突然の厳しい叱責に面食らったが、落ち込む暇などない。 まだかまだかと待っている客の元へ早急に向かった。 「____はぁぁぁ〜っ! 助かったよォ、椎名君っ」 何とか無事に配膳は終わり、予定時刻が狂うことなく昼食を取り始めた。 バックで「暑いッ」と叫ぶ早見さんに松本さんがハハハと笑う。 「まるで戦場だな、あの空気感」 「お偉いさんはそういうとこ厳しいかんねー。でも椎名君、初めてなのに手際良くてビックリよ! あんな恐いオジサン目の前にしたら新人の子はみーんなビビって逃げるのに」 「いえ……俺も、結構緊張しました。それに……」 笑顔が全く作れない。 それこそ自分では作ったつもりでも、他人から見れば笑顔になっていないというやつだ。 松本さんに歯向かうつもりではなかった。 それが伝わっているのか分からない。 「松本さん! 14時からの宴会準備、どうします? 今のところ時間通り進んでますけど」 「あー、そうだな。仕切りは外していいが、それ以外は13時からで良い。70から150になるから、グラスは長テーブルにまとめて置いてくれ」 「了解!」 本当に、誰なんだ。 松本さんが真面目な顔をしていると調子が狂う。 これがプロなのかと感心してしまうほどに、俺の脳は混乱していた。 休憩時間になり、1人で休憩室へと向かった俺はベッドへと倒れ込んだ。 業務用とは言え、柔らかくて気持ちいい…… 家でどれだけ寝ても疲れを癒すことができないというのに、ここのベッドは俺の体格にはベストの質感だ。 「このまま一生寝ていたい……」 慣れない仕事に、慣れない人間関係。 そして実兄の存在。 俺の身体はいつか負荷に耐えきれず壊れてしまうのではないだろうか。 そんな不安すら湧いてくる。 ふぅ、と息をついた瞬間、ガタッと大きな音を立ててドアが開いた。 「あれ、椎名いんじゃん」 「っ松本さん……」 反射的に起き上がってしまった。 昼間の軽い怒声を思い出し、気まずさを感じる。 「……先ほどは、すいませんでした」 「え? なんの話?」 「あの、宴会ヘルプのとき」 「あぁっ、あれな。気にしなくていいし、俺に謝る必要はない。最初なんて皆間違えるし安心しな」 上着を脱ぎ始める松本さんから目線を逸らせば、それを肩に落とされて唖然とする。 「ッ……あ、あの」 「さっきの集団は結構な常連客でな。新人だと分かった途端に目をつけてくるやつもいんだよ。新人はクレームつけやすいからなぁ」 そう言いながら隣のベッドへ横になった。 肩に掛けられた松本さんの上着から、柔軟剤の良い香りがする。 逃げたい。ここから今すぐに。 「休憩終わったらまた仕事ってダリぃよなぁ……椎名、一緒に寝るか〜」 「馬鹿なんですか? 絶っ対に嫌です」 「上司に向かってそれはないだろ」 「セクハラですよ、そういうの」 「世知辛い世の中になりやがってよぉ……」 心臓の音が、激しく聞こえる。 心地良さなんてない、これは息苦しさだろう。 現実はあまりにも残酷で、自分が惨めになる。 大嫌いだ……こんな現実。

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