都内で有名なインテリジェンスホテル丸之内に就職をしてから数ヶ月が経った。 指導係である松本さんの仕事ぶりは然ることながら、同時にその饒舌さには数ヶ月経っても慣れることはなかった。 克彦との関係は一向に明るい兆しを見せないが、職場にいる間だけはそれも忘れられた。 1つだけ、変わったと言えば。 「椎名、手出してみろ」 「……はい？ こうですか」 「これやるよ」 「？ ……ッわぁ!!!!」 手の上に落ちてきた数匹の虫に、今までにないほどの速さでイスを立ち上がっていた。 そりゃあもう、叫びたいほどに驚いた。 「な、なな何してるんですかッ……こんな、！」 「はっはは！ 面白れぇなあ。 ただのオモチャだよ、ゴム製の」 「あなた何歳ですか！ 仕事中ですよ！？」 心臓が痛い。 どんだけリアルなオモチャなんだよ……！ 「椎名の反応が面白くてつい、な」 「いい加減にしてください……俺は遊びに来てるんじゃありません」 松本さんとの距離が、徐々に近くなってきている。 スキンシップはもちろん、触れている時間も回数を重ねる毎に増しているような気がした。 そして俺は、日を重ねる毎に松本さんを避けたいと思うようになっていた。 「真面目なのは結構だが、あんまり気にしすぎると神経おかしくなるだろ」 「……慣れてるんで、問題ありません」 「慣れてる、ねえ……」 「松本、ちょっと良いか」 事務所に顔を出した佐々木さんはどこか深刻そうな顔をしていた。 どうしたのだろうかと覗いていると、出張から戻ってきたらしい課長がこちらへ歩いてきた。 「椎名、お土産をもらってきたよ」 「え？ お土産、ですか」 「仲の良い会社の課長でね、私は食べられないから君にあげるよ」 そうして差し出されたのは、小包の洒落た袋だった。 リボンを課長が外すと、中に入っていた高価なチョコレートが顔を出す。 「えと、良いんですか？ これって、結構高いものじゃ……」 「良いんだよ、良いんだよ。でも、君にしかない物だから他のやつらに言っちゃダメだぞ？」 「……ありがとう、ございます」 荷が重い。 こういうとき、こっそりと同僚に分けた方が良いのか？ それとも課長の言う通りに。 「課長、谷口が上野区の方へ営業に行きたいそうですがどうします」 戻ってきた松本さんの声にビクッと肩が跳ねて、小包を鞄に入れた。 挙動不審すぎるだろ…… 「そうだなぁ、私も一緒に向かおう。向こうの支配人と世間話でもしに行くよ」 課長は薄くなった髪を掻きながら立ち上がると、「椎名も行くか？」と満面の笑顔でこちらを向いた。 「……は」 「生憎ですが、椎名は覚える仕事が山ほどありますのでお譲りできませんよ」 「それは残念。では留守番を頼んだよ」 「分かりました」 割と、なんでもありのようだな。 営業まで手をつけ始めたら、俺は一体なにを専門にしているのか分からなくなる。 理由がなく断るに断れない誘いだったが、今回も松本さんに助けられた。 「ありがとうございます」 「お前、そこでお礼言ったら嫌なのがバレバレだぞ？」 「……嫌、ではないですけど」 「課長には少し気をつけた方がいいかもな」 「え、どうしてですか？」 「なんでもねえよ。それより、電話対応は順調か？」 松本さんが隣の席に腰かけるだけで、一々反応してしまう。 指導係とは言え、別にずっと一緒にいなくても。 「仕事、大丈夫ですか。そんなに付きっきりじゃなくてもちゃんとやります」 「上司に気を遣うなよ」 俺が離れてほしいんだよ…… 既婚者相手に意識を向けている時点で間違っている。 それは分かっているのに、無自覚で距離を縮めてくるこの男にゲイだから近づくなとは言えるはずがない。