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第14話
松本さんから聞いた家庭事情は、俺にはあまりにも重いものだった。
「高校から付き合っていた彼女、21も間近な頃に妊娠が分かってな。それはお互い大喜びだったよ。彼女とは結婚したが、そこから状況が一変したんだ」
淡々と過去の話をする松本さんだが、その目には深い後悔と罪悪感が映って見えた。
彼女と同棲を開始し、晴れて夫婦となった新婚生活は華やかになるものだと2人は思っていた。
それが一年後に破綻をした。
理由は、育児の過酷さによる疲労困憊だそうだ。
夫である松本さんは生計を立てる為に仕事をし、休日には妻と陸の相手をした。
それでも日に日に2人の距離が空いてしまったらしい。
ある日突然、最愛の妻から離婚届にサインをしてほしいと頼まれた時は胃に穴が開きそうだったと彼は話した。
何度も言い合いになり、陸の今後のことで長時間揉めたとも。
松本さんから話を聞いて初めて、陸の寂しげな視線の理由に納得がいった。
それと同時に、胸の奥が焼けるように傷んだ。
なにも知らなかったとはいえ、どれだけ失礼なことを俺は言ってしまったのだろう。
「……すいません、でした」
「椎名が謝る事はないだろ。離婚してから4年も経っているし、今は祖父母の手も借りている。陸の将来を考えると絶望して仕事を放棄しかけた時期もあったけどな」
いつもの調子とはいかず、苦い過去を自嘲するように笑う松本さんにはなんと声をかければ良いのか分からなかった。
「椎名、お前がそんな顔をしたら俺まで気分が落ちるからやめろ」
「……すい、ません。なにも知らなくて、その」
「話してないんだから知らなくて当たり前だ。ほーら、表情固いぞ〜」
「っ、やめ……」
こんなときだと言うのに、頬に触れた寛容的で男らしい手に反応して喉が熱くなる。
近づいてはいけない。
俺が深く関わるにはあまりにも無責任で薄情的だと、強く自身に言い聞かせた。
「6つも違うと肌の調子が全く違うなぁ。なんだ、この柔らかさ。ある意味大人への暴力だぞ」
「ちょ……っ、気安く触らないでください」
「椎名君はワタシのものでーす、って宴会のやつらが騒いでたぞ? 綺麗な顔してるしモテるだろ」
「し、知りません……そんなの」
頼むから手を離してくれ。
抵抗しようと松本さんの手をつかめば、そこから熱が伝わって心臓がバクバクと音を荒くする。
なにをしているんだ、俺は。
ここから離れなければ、いけないのに。
「あのっ、俺……風呂、お借りします」
「あぁ、いいよ。着替えは脱衣場に置いてるから使えよ? オッサンだから嫌とか言われたら傷つくぞ〜」
「……まだ27じゃないですか」
この鼓動を勘づかれたくない。
松本さんの家にいるなど、何度考えても夢のように思えてしまう。
脱衣場へのドアを開けて背後へ振り返れば、陸の頭をなでて微笑む姿に恋情を感じた。
「____やっぱりダメだ……っ」
脱衣場で1人屈み悶々としている俺は、傍から見れば不審者だ。
松本さんの下着とTシャツと、少しブカブカのスウェットパンツ。
それをまさか自分が着ているとは、きっと妄想の世界だけだと思っていた。
柔軟剤の、匂い……
ゾクッと下腹部辺りに感じた熱は、目をそらさなければいけないと思った。
平静でいてくれ、お願いだから。
「戻り、ました……あれ? 陸は」
「寝室だよ。あいつは一度寝ると当分起きないからな」
キッチンに立ち、コーヒーをカップへ注いでいる姿が様になっている。
ミニスプーンがカップの縁に触れ、カチャンと音を立てるのが耳に心地良い。
……そうだ、仕事の復習を。
「椎名、コーヒーと紅茶と抹茶ならどれが良い」
「そんなっ、お気遣いは結構です」
「おい、急に他人行儀はやめてくれよ。俺が出したいだけだ」
「……じゃあ、抹茶で」
「抹茶な」
まるで、貸切のカフェにいる気分だ。
時間を忘れてここに居座っているが、珍しく克彦からのLINE通知もなければ通話もない。
さすがに、死んでしまったわけではないだろう。
「ビール、飲まないんですか」
「いつの間に見たんだよ」
「陸が、ジュースを飲みたいって言ったときにちょっと……」
「ふ、ほしいなら飲んでもいいぞ」
「いえ……あんまり、そういう気分じゃないので」
テーブルに仕事用のジップファイルを広げる。
俺は、仕事だけに集中していればいい。
余計なことは考えるな。
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