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第17話

「ゆうしゃんみてー、エビかわいいっ」 「ん、そうだな」 松本さんから聞いた話、陸は母の顔をどうしても思い出せないらしい。 産まれて1年後には去ってしまったのだから覚えているはずもないが、顔写真が載っているアルバムを頑なに開こうとしないと聞かされた。 幼いながら、どこか寂しさを感じているのだろう。 「このまえねぇ、たこさんウインナーがいっぱいあったんだ〜。ボク食べたくなかった」 「なんで? 顔があるから?」 「うん、かわいいのに食べたらなくなる」 「ふ……」 当たり前の事を言っているだけなのに、可愛すぎる…… 松本さんの子だからなんだろうか。 この子の身体には、俺の知らない女性の血も流れている。 心臓が痛くなった。 一晩共にしただけの俺が、自惚れていいはずがない。 「…………すいません、松本さん。今日はもう帰ります」 ここに泊まっていたいなどと、厚かましいにも程がある。 俺はなにも期待していない。 年上とは言え彼も人間だ。 たった1人で何年も息子を育てていたら、寂しさを感じていても不思議じゃないだろ。 そう、思っていたが。 「ゆうしゃん……もうかえるの?」 泣きそうな顔で手をにぎってきた陸が、俺の行動を制止した。 「陸……えと、その」 「椎名。お前、家族と上手くいってないだろ」 「え……」 「悪い……こんな事を聞くのは門違いかも知れないけどな、わざわざ職場に残って仕事の復習をしているやつなんて椎名くらいだ」 「それ、は」 「本当に耐えられないことがあるなら言え。お前はもう社会人なんだから」 突然そんなことを言い出すから、危うく口を開きそうになった。 もしかしたら俺は救ってもらえるのかもと、淡い希望を胸に抱いていることは松本さんに言えない。 求めてはいけない。 住む世界が違うんだ、俺とこの人は。 「……社会人なんで、手を貸してもらわなくても大丈夫です。そんなに困ってないですし、1人でなんとかできます」 「俺に気は遣うなよ」 「遣ってないです。松本さんこそ、もう少しご自身の体を気遣ったらどうですか」 胸の奥が掻きむしられるようだった。 陸と、もっと話していたい。 松本さんともっと近づきたい。手にふれたい。 俺には、そんな権利も資格もない。 男である俺に一体誰が許してくれると言うのだろう。 「ゆうしゃんやだ……まだいっしょにいる、っ」 「……ごめんな。俺も家族と一緒にいなきゃいけないから、また今度遊ぼう」 「いやだあ……っ!」 ぽろぽろと涙を流し始める陸への罪悪感で、ズキズキと胸が痛んだ。 それでも帰るべき場所に帰らなければいけない。 さっきからスマホが震えてうるさいんだ。 「陸、椎名にも大事な家族がいるんだ。お前のわがままでそれを引き裂くのはやめろ」 陸を引き離し抱き上げる松本さんは俺と目を合わせることなく、「その服はお前にやる」とキッチンに向かった。 「……すい、ません」 「もう泣くなよ、陸。男だろ?」 小さく呟くように言った言葉は、恐らく届かなかった。 背をポンポンと叩いても、陸は泣いている。 どうして俺なんだろう。 松本さんの優しさも、克彦の束縛も、陸の泣き顔も、どうして……__ 「昨日は、本当にありがとうございました。それじゃあ、失礼します」 「あぁ」 帰り支度をして玄関へ向かう足取りは、通勤よりも重いものだった。 陸はリビングのカーテンに包まり、そこから顔を出さなくなってしまっている。 きっと、嫌われてしまったのだろう。 素っ気ない松本さんの対応もまるで違う世界にきたように感じた。 会釈をして松本家を離れた途端、ひどい吐き気に襲われてその場にかがみ込んだ。 「ゔ……くっ……」 スマホ、見たくない。 克彦から来ているのは分かっている。 何を言われるのかも、なんとなく。 心臓の鼓動は不自然なほど大きく鳴っていた。 帰り、たくない。 「……はは、帰りたくないなんて思ったことなかったな」 独りでに呟けば、風に流されて簡単に消えていった。 克彦との生活が普通で、あそこが俺の家で。 帰らなきゃ。

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