21 / 68

第21話

消防点検のために片付けられた会場は、物がなくなるだけでかなり新鮮に思えた。 大掛かりな作業は昼までかかり、終わった頃に休憩時間となっていた。 「あ〜っ、ひと仕事した気分だなぁ」 「片付けしかしてないですよ」 「それが良いんだっての。さ、休憩行くぞー」 「あ、あの俺……1人で、休憩室に行くので食堂は結構です」 立ち上がった松本さんが一瞬、眉根を寄せた。 「松本ー、椎名に社員寮の場所を教えてやれ。そんなにないかもしれんが、清掃の手伝いなんかをやってもらうかもしれないしな」 「あぁ、了解しました。って事だから、ほら行くぞ〜」 にこにこと憎たらしい笑顔で。 俺はこの男に、いつか精神的に殺される。 そう確信した。 「社員寮なんて、あるんですね」 職場から車で20分。 社員専用の寮は、5階建てマンションと3階建てのアパートと2軒並んでいた。 「あの……どうしてこんなに外観が違うんですか」 「そっちのアパート、築25年らしいぞ。結構劣化してて害虫に悩まされるって話だ。安い方が良いならって事だろうよ」 「ああ……そうなんですか」 社員寮……か。 確かに少し不便ではありそうだけど、1人で賃貸マンションを借りるよりは良さそうだ。 ふとそんな思考が頭をよぎり、首を振ってかき消した。 「椎名、お前ここに住めばいいんじゃないのか?」 「……は?」 「見てみろ、ここはセキュリティが充実していて指紋認証かパスの入力でしか入れないようになっているんだ」 斜面型のパネルに松本さんが手をかざすと、短い音が鳴り自動ドアが開く。 長い廊下の大理石は隣のアパートと比べものにならない。 都内でこんな場所に暮らすとなれば、それこそ相当な額が。 「なーに絶望した顔してんの」 「高い……ですよね、相当」 「月2万だよ。ちなみに隣のは1万だ」 「え、安……っいや、敷金とか礼金とか諸々は……」 「そんなの会社負担に決まってんだろ。有名なホワイト会社だぞ?」 …………悩んで、しまう。 ここに住めば、克彦の束縛を避けることができるかもしれない。 離れたくて仕方なかった、あの男から逃げられる。 「お前結構しっかりしてんだから、こういう場所で一人暮らしってのは案外楽しいかもしれないぞ」 __本当に、解放されるのか? 家を離れることが、俺にできるのか。 そんなのはただの幻想で、きっとあそこを出ようものならあいつは…… 「椎名?」 「あっ、すいません! ぼうっとしてしまっ……、!」 顔を上げた途端、額に松本さんの手が当てられた。 驚いた体は硬直し、その場から一歩も動けなくなる。 「松……本、さん……」 「来いよ、今日も」 低く落ち着いた声は、俺を包み込むように奥底まで響いてきた。 いつになく真剣な瞳に緊張し、わけもなく赤面する。 「さっきも言っただろ。疚しいことがないなら逃げんなよ」 「……っ……は、い」 断れない。 この男の強引さに、縋りたい。 手に、触れられたい。 もういっそ、壊してほしいほどに。 「____どっかツラいのか?」 定時に退社をし、やけに優しい松本さんの車に乗りこむのには結構苦労した。 というのも、悶々と悩み続けているこの頭が原因で。 さっきから呼吸が苦しく、微かな恐怖と膨大な不安が襲ってきている。 「つらいって……何が、ですか……」 「……無自覚なわけないよな。息が上がってるぞ。熱いのか苦しいのか、ちゃんと言えよ」 「なん、でも……」 「はぁ……分かった。帰るぞ」 克彦からの着信は見たくない。 いくらでも女と遊んでくれたって良い。 俺のことは、完全に忘れていれば良いんだ。 そう願う俺は、今どんな顔をしているのだろう。 「…………椎名克彦」 「ッ!!!! ……え、っ……?」 意識をしすぎて、耳がおかしくなったのかと思った。 車を走らせた松本さんの口から零れた名前に、内臓の辺りを鋭利な刃物で抉られるように苦しくなる。 「全国的に有名な無線通信サービスを提供している日本電機通信のプログラマー、らしいな」 「な……っ、なんでそれを、松本さん、がっ……!」 血の気が引くと同時に、脳震盪を起こしてしまいそうな目眩を訴えた。 「勝手に調べた事は悪かったな。お前の兄と知り合いの男が別の部署にいて話を聞かせてもらった」 「……っ……何を、聞いて」 「真面目で仕事のできる部下だと社員に評判らしいが、かなりの虚言癖らしいじゃないか」 「ッ」 どこまで、知っているんだ。 克彦が家庭内暴力を日常的に行う人間だと、松本さんに勘潜られでもしたら俺は……

ともだちにシェアしよう!