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第22話

「か、帰ります。今すぐ降ろしてください」 助手席のドアに手をかけ開けようと試みるが、走らせている状態では自動でロックがかかるらしい。 「やめろ椎名、お前がそこまでして兄を庇う理由はなんだよ」 「そんなの、知りませんっ……早く停めてくださいッ。あなたには何も関係ないじゃないですか、!」 「少し落ち着け、椎名」 「お願い、します。帰らないといけないんですっ……早く、家に帰らせてくださッ……」 急ブレーキのけたたましい摩擦音と、吹っ飛びそうな衝撃で視界が霞んだ。 空車とパネルに表示された駐車場に停車したらしく、ドクンドクンと激しく鳴る心臓が今にも破裂しそうだった。 「は……はっ、……すみ、ませ」 「帰すとは言ってない」 「…………ぇ……あの、松本さん何して……」 シートベルトを外す音、殴りかかってきそうな形相、止まらない冷や汗。 次の瞬間、グッと強引に腕を引かれた俺は松本さんの胸に抱き寄せられた。 「ッ……ハっ、はぁ……松……」 「…………」 意味が分からなかった。 ただ無言で俺を抱き締める男の顔が見えなくて、ひどい熱だけが伝わってくる。 「椎名、そのケガは兄にされたんだろ」 「……違、」 「違わない。今の反応は普通じゃない、本当は分かってるんだろ? お前の言いたい事は、そういうことじゃないのか」 「違い、ます……違うん、です……俺は、っ」 「もう喋るな」 苦しい。悲しい。痛い。 それなのに溢れ出すのは、ほんの少しだけ感じている安堵からの涙だった。 「____茶、いるか」 「……ありがとう、ございます」 松本さんの家のリビングは、質素だがどこか温かい雰囲気があった。 耐えきれずに溢れ出た涙のおかげで体力消耗はひどく、ほとんど体重を預けてソファに座っている。 人前で、それも上司の前であれほど取り乱した事はない。 「陸は……」 「祖母の家だ。どうも料理がしたいらしくてなぁ……楽しそうにお菓子を作ってると連絡があったよ」 「そう、なんですか」 隣へ腰かける松本さんの横顔は、分かりやすく疲労している。 「……本当に、すいませんでした」 「ロックがかかっているとは言え、ヒヤヒヤさせるよな。普通、兄の名前を聞いてあんな絶望する奴いねえだろ」 「……」 「話してはくれないわけ? ……まぁいいんだけどさ」 「俺…………ゲイ、なんです」 ピクリと松本さんの指が動いた。 ずっと重荷になっていた自分の心のうちを開けるのは、恐怖感が半端じゃない。 それこそ、会社に居づらくなる最もの原因だ。 「中学の時にそれが分かって……ずっと家族にも隠してたつもりでした。でも、兄だけにはバレていて」 思い出したくもない、兄の脅すような目。 人の弱みを握った人間はまるで野獣と変わらない。 「神奈川の実家から上京した兄を高校入学と同時に追いかけて、居座らせてもらっているのが今の俺の家なんです……」 「……わざわざ兄の家に行ったのは、何か理由があったのか?」 「少し……憧れ、てたんで。克彦は昔から勉強も運動もできる奴で、近所の評判も良かった。だけど俺は、賢くないし運動もできないしすぐ体調を崩すしで周りからの期待すらなかったんです」 言葉一つ一つに喉が震えて怖いと感じる。 何も言わずにお茶を差し出してくれる松本さんの優しさが、苦しくて仕方ない。 「一緒に住み始めて、克彦の優しさが消えました。荒れた部屋の掃除をしろだの飯を作れだの、俺の事なんていい道具にしか見てないくせに……どこか寄り道をしただけで男ができたのかって迫ってきて、本当にそれが嫌で……っ」 再びジワリと滲む涙。 松本さんの手が俺の肩を抱いて、呼吸を落ち着かせようとしてくれる。 「すい、ません……本当は夢なんてないのに、克彦を越えられたら状況が変わるかもしれないと必死に勉強をして経営学科に進学したんです。経理の仕事……あんまり得意じゃないんです、けど」 「……そんなに苦しい思いをしていたのに、誰にも話せなかったんだな。お前は」 「怖い、んで……。克彦に何をされるか分からないし、暴力がバレて克彦が世間体から蔑まれたら、俺の居場所も身寄りもなくなって……」 「神奈川の実家に帰ることは考えなかったのか」 「…………一度、克彦と一緒にいるのがキツいと母に相談した事があったんですけど、"克彦のおかげで裕福できるのだから文句を言うな"って言われてしまって、そこからもう相談してないです」 苦しい……怖い…… 次から次へと、胸のうちに溜まっていた闇を吐き出してしまう。 こんなのはもう、消えてなくなって欲しい。

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