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第29話

朝目が覚めると、陸を抱いていることに気付いた。 隣で背を向けて眠っている椎名を抱きしめたいと思ったが、あまりにもできすぎた話は信用できない。 「ワン、タン……じゅるる、」 「ふ、食うことばっかだな……」 陸は寝言でもしょっちゅう食べ物の名前を出す。 目を覚ました時に俺が離れていればくっついてくるし、いないとなれば慌てて探し回るようなやつだ。 可愛いというか、とにかく手がかかる。 顔でも洗うか…… 2人を起こさないよう脱衣場へと向かい、水道で顔を濡らした。 椎名の意向が固まれば、俺は安心するのだろうか。 兄の元から離れてくれと、心の中で思っていてもナイーブな椎名に言うべきではないとも思う。 こういう時、漫画の世界なら「俺の家に住め」と強引にでもここへ住まわせるだろう。 だが現実は……そう簡単ではない。 2階に戻り部屋を開けようとした時、寝室からすすり泣く声が聞こえて足を止めた。 ……椎名? ベッドで膝を抱え、声を抑えて泣いている椎名が視界に映ると入るに入れなくなる。 兄との生活がどれだけ苦しいのか、それを分かってやることもできない。 俺にできることはないのか。 少しでも椎名を救える何かが、俺にできれば。 「____松本さん、おはようございます」 「あぁ、おはよう」 朝飯の準備をしていると、先ほどのことは夢だったと思うほど平常通りの椎名がソファに腰かけた。 「まーた勉強か? どんどんシワ増えるぞ〜」 「趣味なんですよ」 嘘くさ…… 昨日はあんなに人間味のある顔をしていたのに、今の椎名はロボットのようだ。 「椎名、今日もどうせ予定ないだろ? 陸の遊びに付き合えよ」 「……あの、最初から人の話聞く気ないですよね」 ねえな。 こっちも必死なんだよ。 「弁当なんか作って、どこへ行くんですか?」 「この間谷口が営業に行った上野(かみの)に動物園と水族館が一体になった大型公園があるんだよ。今日はそこに連れて行ってやろうと思ってな」 「……仕事、早いですね」 「いや、動物園に行きたいって話は前から聞いてたんだ。どうも仕事の疲れが取れなくて渋ってばっかだったからな……」 椎名も来るとなれば、陸は飛び跳ねる勢いで喜びそうだ。 「凄い、です」 「ん、なにが」 「1人で大変なのに、そんな風に子供を思いやれる父親ってなかなかいないですよ」 「あーまぁ、結婚しようっつったのも俺からだしな。あいつは全然言ってこないけど、幼稚園でも父子家庭を理由に周りの園児から色々言われたらしいし」 むしろ、これくらいした程度で陸が満足なのかと疑心暗鬼になるばかりだ。 「何も、言ってこないんですか……」 「あぁ、婆さんから聞いた。別に母さんいなくても寂しくないからって言ってたらしいんだよ」 それが陸の強がりだとしても、その言葉を聞いた時は随分と救われた。 心に溜まった蟠りが解けるような、妙な安心感を覚えた記憶がある。 「……きます」 「え?」 「俺も……行きます」 こちらまで自ら歩いてきた割に、途端に気恥ずかしくなったのか、目を逸らす椎名にキスをしたくなった。 可愛すぎんだろ……っ 相手は職場の部下であって、それも男だ。 目を覚ませ、俺! 「それ……いただいて良いですか」 「ん、良いぞー。意外と腹減ってんのな」 「別に、そんなんじゃないです」 朝食用に作っていたサンドイッチを手に取ると、スタスタ定位置に戻っていく。 あーあ……マジでどうかしてんな。

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