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第31話
「大浴場って、どうして2つあるんですか?」
ドライブ中に陸ではない者の声が聞こえるのはかなり久々で、それが返って違和感となる。
それでも心地よく思えるのは、椎名だからなのだろうか。
「昔からあった5階の浴場は展望ものだったんだけど、向かいにデカいビルが建って丸見えだっつって窓が開けられなくなったんだよ。それで11階にテラスを追加して作ったらしい」
「そうなんですね……東京はたしかに、高層同士の争いが大きい印象あります」
「お前、こっちに来て結構経つだろ? スカイツリー行ったことあんの」
「……ないです。一緒に行く人、いないし」
ふーん……なるほどな。
結構住んでいて観光地巡りをしない椎名の余裕のなさには、胸に引っかかるものがある。
「今度一緒に行くかぁ」
「い、嫌ですよっ! 何言ってるんですかッ」
「は? なんで」
「ツリーの高さ知ってます!? 600mですよ! 落ちたら即死どころか、風圧で複雑骨折して終わりですからね!?」
「……え、何。お前高所無理なの?」
「ッ……別に、無理じゃない……ですけど、」
んだよその反応……可愛すぎんだろ。
素直に苦手ですと言えばいいのに、それも恥ずかしいらしい。
あぁ、今すんげえキスしたい。
「ちょうど陸も来年小学生になるし、お前が仕事辞めてなかったら一緒に行けんだろ」
「……経理課の課長になるまでは、辞めません。多分」
「椎名が課長って……イメージ湧かね〜」
「そ、それは俺も分かってます。全然頭も良くないし、あんなキラキラした業界も向いてないし」
「そうじゃなくて、エリアマネージャーを目指せば良いんじゃねえのー? 主任って言ってるけど一応は統括マネージャーだし、そうしたら俺と一緒だぞ〜」
「…………宴会は、嫌です」
「こらこら、好き嫌いすんな」
チラリとフロントミラーを見ると、陸は首を預けて眠っていた。
「それで、色々やってるんですね。この間、レストランの手伝いまでしていて正直驚きました」
「ホテル業界は役がつくまで長げえからなぁ。俺も一応もらってるだけってもんだし、お前に堅苦しい敬語じゃなくていいって言ったのもそういう事だよ」
「……でもやっぱり、松本さんは先輩って感じじゃないです。俺的に」
「そんなに老けてるってか」
冗談で言ってみれば、あからさまに不貞腐れた顔をする。
兄が笑顔キラーだと弟はこうなるのか。
信号が赤になると同時に車を停め、チラッと椎名を一瞥した。
「椎名」
「はい? なんです、っ__」
重ねた唇がジワリと熱を帯び、その柔らかさに溶けていく。
いつの間にかこの唇に触れたいと思うことが増えている。
長いようで短い数秒の後に離れて、何事もなかったように車を発進させた。
「____ああっ、とりやきたべるー!」
陸が以前から行きたがっていた動物園と水族館が少し離れて並ぶ上野大広場に着いたのは、午後前だった。
広場には出店が並び、陸はすっかり元気にはしゃいでいる。
「どれが欲しいんだ?」
「これ! やきタレのやつっ」
陸がお気に入りのようで、椎名は「分かった」と頭をなでてこちらを振り返った。
「松本さん、陸はアレルギーとかって……」
「全くないぞ。というか、財布を出すのは父親の役目だっつの」
「これくらい構いませんって。俺も、何かしたいんで」
「バーカ、なにかしたいなら陸の手握っててやれ。お前のこと大好きみたいだしなぁ」
椎名の財布を強引にカバンへしまい、売り場の人間に焼きとりを1本頼んだ。
男の性というか、なんというか。
ここに来るまでも椎名に一銭でも払わせる気はなかった。
……って、何だこれ。
俺の妄想に付き合わせてるだけじゃねえか。
「ゆうしゃん、てて大っきい」
「陸は小さいな。可愛いサイズ」
「いっぱい、にんじんたべて大きくなるの」
フフ、と微笑した椎名の手を握っている陸が、なぜだか羨ましく思える。
実の息子相手に大人げないが、自分の微かな欲に抵抗するのも一苦労だった。
「そう言いながら、その手に持ってるのはニンジンか?」
「うん、にんじん。ゆうしゃんもたべる」
「いや良いよ。それは陸のだから」
可愛い生き物が2人でわちゃわちゃしているのは目の保養だ。
この思い出だけで何連勤でもできてしまうような気さえしてくる。
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