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第33話

松本さんは、意外と仕事熱心な人だと思う。 会社の損得状況を把握できる財務体質を図形にした年間の表を渡され、陸の元へと歩いていく背を一瞥した。 休みの日にまで仕事の話を持ち込むような男にはみえなかったが、それは偏見か。 「へえ……結構、儲かってるんだな」 全国に構えている会館とだけあって、知名度が上がると共に事業規模は年々大きくなっている。 借金こそあるものの、負債額よりも今まで積み重ねてきた収益の方が圧倒的だ。 ホワイト会社と銘打っていただけある。 ……とは言え、俺に管理会計が務まるのだろうか。 総合学科の高校で軽い知識を身につけ、公立の短期大学で念入りに勉強したからと言って、今さら両親に褒めてほしいなど思ってもいない。 全部、自分の為だ。 身の丈に合わない職務をこなしてしまえばいつかこの心の隙間を埋めてくれるような、そんな生半可な考えでこの職場を選んだ。 大規模事業であるホテルの内定をもらえたのは、克彦の存在を知っていたからじゃないのか。 そう思えば思うほど、自信がなくなる。 「ゆうしゃあああん!!」 「うわッ、待っ……!」 突然飛びついてきた陸の体でつぶれた書類がグシャグシャになってしまった。 「っ、ま、松本さんすいません……紙が……」 「はははっ、気にすんな。USBにいくらでも残ってるよ」 「そう、ですか。よかった」 「……ゆうしゃん、ごめなさい」 陸が泣きそうな顔で言うから、大丈夫と頭をなでた。 「ちょっとビックリさせたな、ごめん」 「うさぎ……かわいかったの」 「ああ、さっき触れ合ってたやつか。なんか陸までウサギになってたぞ?」 子供の相手は疲れるけど、見ていると癒されるし何より可愛い。 「にんじん、すき。陸もうさぎになるっ」 「ぷっ……じゃあ、陸のご飯はニンジンだらけだな」 「それはやだっ、ほかのも食べるの!」 言ってることが支離滅裂で笑いそうになる。 こんな可愛い子供がいて、松本さんの隣にいられる人が羨ましい。 まだいない未来の妻に妬みを持つ俺は、ここに立つ権利がない。 男であり、部下であり、克彦という切っても切れない存在があり…… 到底、叶うことがないのだ。 それでも松本さんに飽きられるまでの間だけ、この微かな幸福に浸っていたいと思った。 「にんじん新しいのきたっ」 すっかり日が暮れ、陸は動物園のお土産売り場で買ったニンジンのぬいぐるみを大事そうに抱きしめていた。 まるで、夢の国に来た帰りのようだ。 腕時計の針が進むたびに心臓付近の痛みを覚える。 「今日はありがとなぁ、椎名。本当に助かった」 「いえ、俺も楽しかったですし」 「……帰るのか? 今日は」 そんなこと、答えたくもないけど。 「……帰ります。毎日手を出してくるわけじゃないので心配いりません。また明日、よろしくお願いします」 「…………」 なにか言ってくれよ…… 決意が揺らいでしまうから、やめてほしい。 「……じゃあ、家の近くまで送るよ。お前には散々陸の世話してもらったしな」 「ありがとうございます」 嘘をつくのが得意になってしまった。 ありがとうなんて、本当は思っていない。 どうしたら俺はあの男から離れられるのだろうか。 「ゆうしゃん、またウチくるの?」 「陸が良い子にしてたら、また行くよ」 「ほんとに!? ボクいい子する! だからきてねっ」 にぎられた小さな手を、離したくなかった。 まるで子供のように泣きじゃくって許してもらえるのなら、そうしたいくらいだ。 車に乗り込むとそれがさらに現実味を増す。 遊び疲れた陸はチャイルドシートの背に頭を預けて眠っている。 俺も寝たい……けど、目が覚めたら。 「…………本当に帰るのか、椎名」 「はい、?」 「お前の意思が聞きたい。帰りたいのか」 「…………」 ずっと嫌いだった。 この男に出会わなければ、俺の想像に狂いがなく克彦から逃げようと思うこともなかったのに。 煩わしい。 期待なんてするから心臓が痛くなるんだ。 使い捨ての道具などどうせ捨てられるのに、何を期待しているんだろうか。 「…………帰りたいです。やっぱり兄弟なんで」 「そうか……分かった。明日の朝は頼んだぞ」 「はい」 忘れてしまいたい、今日のことを。 全部夢だ、夢なんだ____

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