自宅付近に車を停めてくれた松本さんと目線を合わせず別れを告げた。 いつも帰宅していた場所なのに、脚が震えておかしい。 最初から松本さんと距離を置いていたらこんな苦しい思いもしなかったじゃないか…… どうして俺はいつもいつも。 「…………ただいま」 忍ぶように呟いた。 玄関の明かりは消えていて、リビングが薄ら明るい。 「マジ克彦さぁ〜、性格サイッテーだよねえっ」 ＿＿＿＿は？ 部屋から聞こえてきたのは、克彦の声ではなかった。 知らない女の声。 「何がだよ。優しくて弟思いな兄だろうがっ」 「どこがぁ！？ だってあんたのやり方、弟くんが奴隷みたいじゃん〜！」 ジワリと額に浮かぶ汗が拭えない。 誰、なんだ…… 「奴隷っつーか、あんなん道具と変わんねえよ。あいつ、俺のことをクソ真面目に信じたいみたいでよぉ。"昔は優しいお兄ちゃんだった"とか今でも思ってんじゃね？ それがすんげえ笑えんの！ おもろくて手放せねえんだわ！」 「ほらそういうとこ、最低じゃんか〜っ」 「…………」 ガク、と音が鳴るように膝の力が抜けた。 ショック……を、受けてるのか？ 自分が信じられない。 克彦を煩わしいと思っていたのに、初めて聞いたその言葉が心臓を突き刺してくる。 俺は克彦のことを、本当の兄として………… そして克彦は俺を。 部屋に入る勇気などなかった。 どこまでも臆病で、弱くて、醜い。 俺の生きてきた過去は、何だったんだろう。 家を飛び出した俺は、目的もなく歩みを進めた。 死んでおけば良かった。 克彦に殴られたあの日、俺には生きる意味がなかったのに。 何のために今まで苦手な勉強をしてきたんだ。 嫌いな兄と一緒に住んで、あんな仕打ちを受け続けて一体何の意味があったんだ。 ＿＿＿＿度を越した絶望は、返って俺を冷静にした。 車通りの少ない歩道のレンガに腰かけ、ただただ過ぎていく車のライトに目を向ける。 ズキズキと痛む頭も、どうでもいい。 何もかも、どうでもいい。 「何が……憧れてた、だ……」 盲目だっただけじゃないか。 克彦は俺を1ミリも弟だと思っていない。 兄弟だと慕っていたのは、バカな俺だけだ。 松本さんだって、本当は俺が心配なんじゃない。 そう言っておけば俺のような弱いやつは、それを真に受けて離れようとしない。 それが狙いで、ただの遊びで…… 「……っ……な、んで……なんだよ、！」 学習能力のない自分が嫌いだ。 分かっていたはずだろ。 誰にも必要とされない、使えない、頭の悪い自分が克彦に好かれるはずもない。 声が震えるのに、涙は出なかった。 俺に帰る場所はない。 このまま、死んでしまえたら楽なのに。 「＿＿＿＿……」 残酷だ。 見上げた空は、無数の星で輝いている。 晴れた空と同じで、俺を嘲笑うような皮肉さえ感じてしまう。 何が間違っていたんだろうか。 『＿＿＿＿お電話ありがとうございます。インテリジェンスホテル丸之内、佐々木が承ります』 耳に当てたスマホ越しに、佐々木さんの明るい声が聞こえてきた。 最低だ…… 俺は、松本さんの頼みを放棄した。 「お疲れ様です……椎名、です」 『あれ？ 椎名君どうしたんだ？』 「……すいません、佐々木さん。体調が悪いので、明日お休みをいただけませんか」 社会人失格だ。 そう言われてしまうような気がして身構えていると、『大丈夫？』と返ってきた。 『矢崎課長は帰ってしまったけど、明日言っておくよ。椎名君が休みを取るなんて相当だね……無理はしなくていいから、しっかり休んで』 「あり、がとうございます」 人の優しさが、怖い。 誰を信じたらいいのかも俺の頭は意思が曖昧ではっきりしない。 松本さんは俺に失望するんだろうか。 明日出勤して俺がいなかったら、どう思う。 …………会いたくない。 目の前を横切る車のライトを眺めていたら、いつの間にか数時間が過ぎていた。 徐々に車数が減り、二車線の道路は反射光だけでその存在を示している。 無心で車道に飛び出してやろうかとも考えた。 それでも、そんな勇気が出なかった。 あれほど深い絶望を味わっても、心の奥でチラつくあの男の顔が行動を制御する。 いっそ、誰か消してくれ…… 俺の存在を。 帰る場所もなくなり、ベンチに横になるとカーディガンを布団がわりに羽織った。 1人道上で眠ろうとしている今の方が心地よく感じてしまう辺り、どれだけ麻痺しているのだろう。 そっと目をつぶれば、不自然なほど自然に意識を手放した。