肩の痛みを覚えて重いまぶたを開けると、眩しい陽が照りつけてきた。 耳に響く車のエンジン音や人の声。 吐き気がするほど清々しい空に虚無感を感じる。 通り過ぎていくサラリーマンや学生の視線を感じたが、今さらどう思われようと良かった。 こんな時でも空腹を覚える自分に心底絶句し、花壇に咲く花さえ汚く見える。 よく考えてもみれば分かる事だ。 実の兄弟がセックスをするはずがない。 初めて克彦に襲われたあの日から、俺の思考は狂っていた。 松本さんの言葉が図星で、本当は克彦も昔のような優しい人間なんだと思いたかったんだ。 だから、離れることができなかった。 「アホ、すぎる……」 自分への嫌悪感で心が痛い。 俺はどこまでも学習しない奴だ。 イラ立ちから無意識に舌打ちをした時、スマホがポケットの中で震えだした。 克彦、だろう。 2日も帰らなかったら、さすがに鬼の形相のあいつが思い浮かぶ。 もう通話に出る気力はなかった。 出なくていい、出る必要がない。 あいつは俺を道具としか見ていない。それが分かった今、家に戻る理由など1つもないんだ。 だが着信のバイブは鳴り止むどころか、切れては付いてを繰り返す。 しつこいんだよ……クソ。 スマホをあの川に投げ落としてしまいたい。 数分しても鬱陶しい着信が収まらないことに腹が立ち、文句のひとつでも言ってやろうかとスマホを取り出した。 「＿＿＿＿……え」 画面に映し出された名前は、俺の思考を停止させる。 克彦……じゃない。 表示された名前は、"松本さん"だった。 バクバクと鳴り出す心臓。 手首まで麻痺した指先が着信拒否ボタンを押そうと動く。 仕事中、じゃないのか。 なんで電話なんかかけてきて…… 夜勤担当の佐々木さんが上司に俺の休日報告をしていないはずはなかった。 真面目で親切さのあるあの人が、そんな事。 プツリと着信が止まると、馬鹿でかい音量で街の騒音が耳に入ってきた。 うるさい……頭が痛い。 もう、仕事をクビにされたってどうでもいい。 何度目か分からない着信がまた鳴り出し、同時に周りの音がシャットアウトされる。 松本、さん…… 決意が揺らぐのは嫌だった。 今なら、松本さん相手にも冷淡でひどい態度を取れる気がしている。 そっと指で通話ボタンに触れると、胸の奥がドクンと鳴った。 「＿＿はい……椎名です」 『っお前、どうして出ないんだよ。今どこにいるんだ』 随分と久しぶりに聞いたような。 珍しく怒りが爆発しそうな声色だった。 「どこって……今日は、佐々木さんにお伝えして休みをいただきました。"松本主任"にも、届いているはずだと思いますが」 『……家にいて休んでいるなら、その騒がしさをどう説明する気だ？』 「体調が悪いので、病院に向かう途中で……」 『嘘つくんじゃねえよ。お前、家に帰らなかったんだろ』 …………は？ なんで、それを知っているんだ。 じわりと汗が滲み手がふるえる。 『兄貴が職場に来たんだよ。宿直から家に戻ってこないのはどういうことだっつって、職場では見せたこともない顔だったらしいぞ』 「ッ……！」 『ちょうどロビーには俺と佐々木さんしかいなかったから、追い返して事情を軽く説明しておいた……椎名、お前何を考えているんだ』 意味が、分からない。 俺をどうしたいって言うんだよ。 道具としか見ていないなら、一々職場にまで来てんじゃねえよ……っ 『椎名、返事をしろ』 うざい……うざい、気持ちが悪い。 俺はどうして、自由に生きることさえ許されないんだ。 『おい椎＿＿＿＿』 「もう放っといてくださいッ!!」 何かの糸が切れたように、目尻から流れる雫が手許を濡らした。 「本当なんなんですか……っ、他人の家庭事情にまで踏み込んで。克彦が職場にまで押しかけたことは謝ります。でも、ウチに来いとか寮に住めとか今何をしてるだとか……前々からアンタのやる事はお節介で鬱陶しいんですよッ」 自分で言いながら、もう職場には居られないだろうと確信した。 上司相手にこの態度を取って、この先の将来が見えるはずもない。 それでも、一度吐き出すと止まることを知らず喉の奥がキリッと痛んだ。 「俺がどこへ行こうと死のうと関係ないじゃないですかっ、解雇でも何でもしてください。家にも帰りませんし、克彦に会う気もありませんから」 『…………それがお前の言いたい事か』 「ええ……そうですよ。あなたが"優秀だ"と言った俺はこういう人間です」 分かったら、早く切ってください。 これ以上松本さんの声を聞いていたら、会いたくなってしまうから。 お願いします……お願い、します。