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第36話

『椎名、質問に答えろ。今どこにいる』 松本さんの突拍子もない質問には絶句した。 諸索をするなと言ったばかりなのに、全く聞いていない。 「それを、答えたらどうするんですか……」 『はやくしろ。上司の言うことが聞けないのか?』 「……っ…………城崎、通りです」 プツリと切れた通話。 膝元の薄いカーディガンを濡らすほど溢れる涙が拭えなかった。 上司と、呼んでもいいんですか……俺は。 「いつからそこにいたんだ」 「____」 通話とは違うリアルな響きに、体が硬直する。 付近に車を停めて歩いてくる姿が俺の内臓を抉ってきた。 「松本……さん」 「お前は、あのバカ兄貴にそっくりだな。自分に都合のいい嘘ばかりつく」 「っ」 「あいつも、今日初めて会ったが相当なブラコンじゃないか。しかもそれを他人に知られる事が嫌なのかは知らねえけど、あくまで"兄として"やってきやがる」 「……違い……ます、克彦は……」 克彦は、ブラコンなんかじゃない。 「違わねーよ。じゃなきゃ、わざわざ職場にまで来ないっての。お前だってそうだろ? 嫌いだ嫌いだと言いながら、本当は兄と普通に暮らしたかったんじゃないのか。だからひどい仕打ちを受けても離れられなかった……違うか?」 「そ……れは、」 「椎名、はっきり言うがお前達のやってることは愛情じゃない。依存だ。俺が寮に変えろと言ったのはお前を兄貴から引き離したかったからだよ」 今にも殴りかかってきそうな怒気を含んだ松本さんに、言い返すセリフがなかった。 「俺は言ったよな? お前の意思が聞きたいって。その時、お前が答えたのは「帰りたい」だった。なんで帰らなかった」 「…………克彦が、女を連れ込んでいて。俺は、便利な道具としか思ってないって言って……」 その先を言おうとしても喉に詰まって出てこない。 涙だけが溢れるばかりで、嫌になる。 「苦し、かったんです……っ」 ようやく言えたのがそれだった。 そのとき突然、松本さんに手を引かれ車の方へ向かって歩き始める。 「松、っ……あの、」 「こんな人前で聞く話じゃない」 言われるがままに助手席へ乗せられ、隣に松本さんが乗り込む。 痛いのか苦しいのか分からない心臓が泣いている。 「兄貴がお前の悪口を陰で言っていたことが、辛かったってか。……お前、本当に両親から愛されなかったんだな」 「……」 まるで子供に言うようなセリフに、違和感が拭えない。 だが、こんな家族間の関係に悩んで泣いている俺は恥ずかしいほど子どものようだ。 「笑えば……いいじゃないですか」 「何を。お前が無事でホッとした……俺が言いたいのはそれだけだ」 「……優しいフリは、やめてください。俺は鬱陶しいって……言いましたよね」 「昨日、陸が泣いてたんだよ」 「っ」 「どれだけなだめても無理だった。お前に会いたい会いたい言って、結局一睡もできなかった」 まるで俺の危機を察知したような陸の行動に、ズキッと額が痛む。 「お前がこれからどうするのかはお前が決めればいい。兄貴の束縛がもう嫌だって言うなら、それをはっきりと言え。住む場所なら、いくらでも作ってやる」 「ッ…………すい、ません……すいません、っ」 視界が霞むほど涙が出て止まらなかった。 松本さんに手を握られると、異常な熱が全身に帯びる。 この手に縋りたい、抱きしめられたい。 こちらが突き放しても手繰り寄せられるこの存在に、苦しいほどの恋情を覚えていた。 「ほら、もう泣くなって。さっきも、俺が若いヤツを泣かせたような目で見られたじゃねえかぁ」 「ごめん、なさい……」 「いや、別に良いんだけど。で、どうすんの? 兄貴の家には戻らないか」 あえて聞いてくる辺り、松本さんは根がしっかりしている。 「話し……ます。今日帰って」 「…………そうか。分かった、ならちょっと付き合え」 「? な……何を、ですか」 「営業だよ」 「…………は?」 シートベルトを締めろ、と車のエンジンをかけ始める松本さんには拍子抜けした。 「ま、待ってください……俺は会社を休んでるんですよっ? そんな事、したら」 「嘘に決まってんだろ。谷口がワケあって明日の会議受付に出られないらしくてな。その代わりに俺が出ることになったから実質、今日は休みになった」 「…………それで、どこに行くって」 「家だよ。俺の」 「っ……」 何もしないって、と笑みを浮かべる松本さんには、いつも意表を突かれる。 俺は精神がいくつあっても足りない。 そう強く思った。

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