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第37話
陸のいない松本さんの自宅は、やけに静かだった。
「見積もり……間に合いますか」
「来週の半ばまでにって事だ。……さっきの、本気じゃないだろ」
仕事を放棄しかけたというのに、どこまでも見放そうとはしない。
そんな強い心が欲しいほどだ。
「本気だったら、クビにしてくれるんですか」
「前にも言っただろう? 俺にはそんな権限はない。仮にあったとしても優秀なお前をクビにはしない」
「…………優秀なんて、幻想です」
「素直に喜べよ。お前、結構女からモテてんだぞー? イケメンで仕事ができてミステリアスで」
「……」
「どうでも良さそうだな」
「異性にはあまり興味ないので……ごめんなさい」
「…………椎名さ、それ俺と佐々木さん以外には言うなよ?」
カチャン、と心地いい音がした。
ここにいるとどうしてか心が落ち着く。
「分かって、ますけど」
「ゲイだって知らないやつからしたらイヤミにしか聞こえないしな」
「佐々木さんだって、知らないじゃないですか」
「あの人はほら、ゲイを公表してんだよ。彼氏もいるし」
「は?」
今、なんて……
俺の聞き間違いなはずがなかった。
佐々木さんが、ゲイ……?
「え? っ……えぇ、?!」
「お前、ゲイなのに分かんねーのな。社員の中にはそういうのに抵抗あるやつもいるけど、佐々木さんは偏見なんて気にしない人だから」
「そんなの、分からないです……」
俺以外にも、いたのか。
忌み嫌われるものの1つだと思っていた。
それを自ら公表って……
佐々木さんの強靭なメンタルに尊敬する。
「経理課長の矢崎ってオッサンは、結構タチが悪くてゲイを嫌ってっから気をつけろよ」
「っ……そう、なんですね」
たしかに頭が堅そうな課長だ。
ゲイなのがバレて理不尽に横暴な態度を取られたら、それこそ面倒なことになる。
気をつけよう。
「谷口さん、とかは……」
「あぁ、あいつは頭のネジ外れてるし気にすんな。むしろ、可愛い後輩の相談なら何でも乗ってくれるぞ」
「…………良かったです」
松本さんは、俺のことをどう思っているのだろうか。
好きという感情ではなく、可哀想だからと同情心から家に連れてくるのだろう。
思っていたよりも体の相性が心地良かったのか、キスやセックスもまるで呼吸をするように自然としてくる。
遊びたい欲求が出てきたのか。
俺が変に弱みを見せるから、寂しい気持ちを抱えていた松本さんの心を乱してしまっただけなのかもしれない。
ソファの上で膝を抱え、スマホの電源をつける。
メール、削除するの面倒だな……
LINEも未読が数十件以上あるのに開くのが億劫で、適当に『NEWS Time』という名前のアプリを開いた。
「うっわ、陸のやつ勝手にチーズ食いやがったな……」
「おやつ用ですか?」
「いや、スーパーでよく売ってる調理用のやつだよ。悪ガキなんだよなぁ、まったく」
「……」
ニュースの一面に、不倫した夫が妻に暴力を受けた事件が載っていた。
「優しい……人だったんですね」
「は? 何が」
「奥さんですよ。松本さんの」
「…………」
何年も彼女さえ持てなかったなんて、今でもその人の事が忘れられないんじゃないのか。
そう思うと、自分がここにいてはいけない気がしてくる。
「椎名、これをやる」
「?」
キッチンを出てきた松本さんが、1枚の書類と封筒をテーブルに置いた。
「社員寮の申し込み書だ。会社の規定や保証会社その他についてはその封筒の中に全て書いてある。急がなくてもいい、見切りがついたら俺にくれ」
「…………」
やっぱり、気の迷いだ。
後先のことを深く考えもしないで、今すぐサインしそうになった。
「1人で生きてるわけじゃねえんだから、利用できるもんはとことん使え。上司だって上手く利用したもん勝ちだぞ?」
「それ、自分で言うんですね……」
「俺も新人の頃、仕事を覚えるために上司に迷惑かけまくって散々利用したからなぁ。優しいだけじゃ上手く生きていけないんだよ、結局」
「……はい」
ずっしりと重い松本さんの言葉に、ただただ心が締め付けられるばかりだった。
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