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第42話

「いや、普通好きだったやつの印象ってもっといいだろ」 「……事実なんで。研修旅行でたまたま同じ部屋になって、平気で服脱ぐし全裸で部屋の中うろつくし、本当イかれてんのかと思いました」 松本さんを10倍陽気にしたバカの天才。 今思えば、どこが好きだったのか分からないほど変なヤツだった。 「ゲイの気持ちは分かんねえけど……男しかいなかったらなんも気にせず脱ぐ気持ちは分からんでもない」 「全然分かりません。家族の前でだって、全裸で歩き回るとか無理です。下品だし」 「繊細すぎんだよ。でも、そういうイかれたやつを好きだったことは認めるんだな」 「……よく、分からないですけど」 「それは羨ましいもんだな」 何を言ってるんだ…… そんなこと思ってもいないだろうに。 優しい男は思わせぶりな態度で引っかけておきながら、いざというとき逃げる態勢を取っている。 計算高くて好きじゃない。 松本さんの場合、付き合ってほしいと言えば簡単に頷きそうだった。 この人は目が痛くなるほど良心の厚い人で、俺のような歪んだ性格の男にさえ同情してしまう。 そんな男をもてあそぶ行為はしたくないが、微かに抱いている期待感がそれを阻止してくる。 「ほらよ、ポトフ作った」 「ありがとう、ございます。料理……お上手ですよね」 「妻がいた時は全然だったんだけどな。さすがに1人で陸を育てるってなると、料理の1つ2つできないとマズいっつーかさ」 「……大変、だったんですね。本当に」 「今でこそ落ち着いたけど、2歳くらいまでは本気で死ぬかと思ったんだ。仕事から帰って婆さんのとこに陸迎えに行った後は毎日神経削られたよ。泣くし暴れるしで一睡もできねえ」 母の苦労を知る機会はなかなかない。 松本さんはそれを知っても尚、ここまで陸を育ててきたんだ。 相当責任感の強い人であることは目に見えていた。 「そこからずっと、今の職場に?」 「ああ。あの頃は大学を出たばっかで右も左も分からないまま世話をしていたんだ。今思えば、もう少し余裕持ってやりたかったんだけどな。陸に当たったこともあるし」 「……」 どこまで献身的な人なんだ。 俺は、いつも自分のことで精一杯で他人を思いやれる気持ちなんてない。 陸が松本さんを大好きだと言っていた理由も、痛いほど解る。 「椎名。どういう心境で言ったのかは知らないが……死ぬなんて言い出すなよ? 絶対だ」 「っ…………死なない、です。あれは本当に、すいません」 「そう言えるだけでもホッとするよ。お前、本気でやり出しそうだし」 「……」 突き放したかったんだ。 自分から、この男を。 それができなかったのは、俺の弱さが原因なのか。 夕陽が街を照り始めた頃、松本さんの家を出た。 克彦がまともに話を聞いてくれるかは分からないが、直接言うべきだと思っていた。 自宅のマンション近くに車が停ると、後部座席で眠っている陸がミラー越しに映る。 …………もしかしたらこれが、最後かもしれない。 「行ってこいよ、俺はここで待ってるから」 代わりに出ると言い張っていた松本さんを説得したことで、ホッとすると同時に不安が募る。 「付き合わせて、すいません」 「椎名。言っとくが戻りが遅かったら問答無用で殴り込みに行くぞ」 「…………はい」 克彦は、ヤンキー相手にお構いなしの割に上司や仕事関係者には腰が低い。 社会的な地位に弱い性格のあいつが、松本さん相手に手を出すとは思えなかった。 だが、だからと言って松本さんを巻き込むのは俺の性格上無理だ。 3階へエレベーターで上がり自宅へ戻ろうとした時、見覚えのある背中が見えてしまった。 ピタリと足が止まり、異常な冷や汗が手のひらに滲む。 会いたくはないが、会うためにここに来た。 それなのに、スーツ姿の克彦の背を見ただけで足がすくんで動けない。 「っ…………」 ひどく殴られた胸元がじわりと痛む。 激しくなる心臓は呼吸を息苦しくさせ、今さら決意が揺らいでしまいそうになった。 行かなきゃ、駄目だ。 俺は独りじゃない。克彦がいなくても____ 「克彦っ」 俺の声に克彦が足を止めた。 振り返った兄は、どうしてか全く知らない赤の他人に見える。 「…………どこをほっつき歩いてたんだ、てめえ」 「話が、あって来た。……前にも言ったけど、俺はもうここへは帰らない」 距離を縮めるのも恐怖で、常に克彦の行動を意識する。 近づけば、確実に殴られる。 「まだ寝言ばっか言ってんのか」 「寝言じゃない、本気だ。俺は……俺の生き方をしたいんだよ。ここまで居座らせてくれたこと、克彦には感謝してる。でももう……1人にさせてくれ」 眉間にシワを寄せた克彦の眼には、怒りが滲み出ていた。

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