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第43話

「あの男か……」 「____は?」 ワントーン低くなるだけで、人を脅し殺せるほどの威圧感があった。 手が震え拳を強く握っても恐怖が薄れることはない。 「受付にいた黒髪の男だよ。お前、あいつに何か言われてんだろ」 「なに……言って。上司は関係ない、俺が決めたって何度も言ったはずだっ」 「関係ないやつがやけにお前を庇おうとしていたのはなんだ? 家に帰ってこないのも関係あるだろうが。優斗てめえ、洗脳されてんじゃねえのか」 徐々に距離を縮めてくる克彦に「近づくな!」と叫んでしまい、反射で唇を噛んだ。 「…………なんで、だよ。俺はお前の兄だろうがッ、誰に向かって言ってやがんだ!」 「っ、」 「おい優斗、お前やっぱりあいつにっ……」 「触んなって言ってんだよッ!」 掴まれた手を勢いよく引き剥がし、克彦の体を突き飛ばす。 体幹がいい克彦はふらつく程度で体勢を直すと、強い憤りを顔に表した。 「兄弟、とかっ……微塵も思ってないヤツが今さら兄ぶんなよ! 俺がどれだけ頼んだって、いつも一方的だったじゃないかッ」 「……なに、言ってやがんだ」 「克彦はっ……いい道具としか思ってないんだろ……俺は、あんたに憧れて得意でもない仕事まで選んだんだ。今は自分を殺したいほど、本当に馬鹿だったと思ってる……っ」 この階に住民が少ないのが救いだった。 壁が厚く互いの音を遮断してくれるこのマンションでなければ、不審に感じた住民に通報されそうだ。 目の前で拳を握る克彦に怯み一歩後ずさりするが、胸の内に溜まっている不快感を吐き出したかった。 「俺が、何をしたって言うんだよ……! 兄だって思いたかった、のに……お前が……ッ」 「お前よ……さっきから、誰に向かって口利いてんだ、あぁ゛ッ!?」 「ッ!」 克彦に胸ぐらを掴まれた瞬間、もうダメだと思った。 俺の力なんて、克彦の前では雀の涙に過ぎない。 一生、幸せになれるわけが____ 「やめろッ!」 脳の奥まで響いてきた声に、全ての音が消えた。 克彦の動きも止まり、筋肉質の腕に突然強く抱き寄せられる。 「……ッ……」 ハッとして目線を上げれば、松本さんの手が克彦の腕をつかんでいた。 「アンタは……あん時の、ッ」 「その節はどうも。……お前さ、日本屈指の大企業に勤めるほどの能力を持ってるくせに、頭に血が上ると後先考えられなくなるってか? こいつを次殴ったらどうなるか、考えれば分かるよなぁ?」 「……やっぱ、そうじゃねえかッ。てめえが優斗をこの家から奪う気なんだろうが! 余計な事ばっか言いやがって!」 「奪うも何も、椎名はお前のモンでもこの家の道具でもない。散々束縛しといて、こいつの意見をまともに聞いたことがあるのか? 自分だけのモノにしたいなんて幻想はその辺のクソガキと思考が変わんねえんだよ」 「このッ……マジでぶっ殺すぞクソ野郎ッ!」 克彦の憤慨した怒声に心臓がバクンと鳴り、矛先が松本さんへと向けられた。 その瞬間、自分が死ぬ恐怖よりも彼を傷つける恐怖が先行する。 とっさに松本さんの手を掴み自らを盾にしようとしたが、松本さんは俺を突き飛ばし克彦の肩をドアへと勢いよく押し付けた。 「っ松本、さ……」 「腑抜けたこと言ってんじゃねえよッ!」 聞いたこともない松本さんの叱咤の声に肩が震える。 「お前は椎名が……お前のせいで仕事を放棄してしまうほど苦しんでた事を知らないんだろ」 「……何を、言ってやがるっ」 「実の兄に怯えて冷静でいられなくなるこいつを、一度でも理解しようとしたことがあったのか! 椎名が笑顔1つ見せない理由を考えたことがあるのかって聞いてんだよ!」 意地でも克彦を殴ろうとしない松本さんは、ただ怒りをぶつけるだけではなかった。 溢れてくる涙を堪えようとすればするほど、喉の奥がズキっと痛む。 「今のお前に、椎名の兄貴を名乗る資格はない。社会が許そうと俺が許さない。最愛の弟がここを出て行きたがる理由を、その無い頭でもういっぺん考えろッ、社会人だろうが」 毒を吐くように言い放ち克彦を押し飛ばした松本さんが、「大丈夫か」と腕を引く。 支えられて立ち上がったものの、感覚が麻痺して嫌な違和感がある。 「行くぞ」 視界を埋め尽くす雫にコクリと頷くのが精一杯だった。 恥ずかしいとか惨めとか、そんな事を感じられないほどにこの男が恋しいと思ってしまった。 触れているのに、手の届かない遠い存在である男が好きで好きで壊れそうになる。

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