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第44話

「お前、バカか」 車に乗り込んだ瞬間、かけられたのはその一言だ。 それも先ほどの優しい声色がなくかなり怒気を含んでいる。 「なんで俺の前に出ようとした。あんなことをして、どれだけ危険な行為だったか分かってんのか?」 「…………分かっ、てます」 「分かってねえだろ。いくらあいつと言えどお前が食らってたら間違いなく骨が逝ってたぞ……二度とするなよ、あんなこと」 「っ、松本さんが傷つくのは、嫌なんです……俺のことなのに、関係のない人が怪我でもしたら俺はっ」 「しねーよ。あんなガキを相手に怪我するほどヤワじゃない」 皮肉の1つや2つを言おうとしたが、頭を手に引き寄せられ松本さんの胸に抱きしめられると何も言えなくなった。 「ッ……松、本……さん」 「よくやったよ。もう大丈夫だ」 「子供……扱い、しないでくださいっ……」 痛くて、苦しくて、辛かった毎日が、よりリアルに感じた。 松本さんの手が熱く優しい。 この手に触れられたい、抱かれたい…… 加速する鼓動を悟られないように軽く体を捻った。 「し、シートベルトしないと怒られます……」 「俺、お前とならむしろ捕まっても良いんだよなー」 「やめてください、俺は絶対嫌です。育児放棄ですよ」 「せっこ。それ持ち込むのズルだろ〜」 「事実しか言ってません」 途端にいつもの松本さんへと戻り、なぜだか混乱しそうだった。 まるで別人だ……さっきの男は誰なんだ。 「来るの……早かったですね」 「あんなん大人しく待つわけないだろ? 大人をナメんな」 「…………本当に、ありがとうございます」 「大したことしてねえよ」 そう言って背後を振り返った松本さんがフッと微笑んだ。 「可愛いよなぁ……2歳の時からずっとなんだよ。このニンジンを手放す気はないらしい」 「……なんでニンジンなんですか? 陸は本物も好き、ですよね」 「あぁ、陸が産まれて間もない頃に婆さんの誘いで親戚の畑に行ったんだ。その親戚は土産売りもしていて、妻が"ニンジンが可愛い"っつって言うからぬいぐるみを買ったんだよ。そうしたら、なぜか陸がえらく気に入ってしまった」 自分で聞いておきながら、少し耳を塞ぎそうになった。 陸はもしかしたら、無意識のうちに母のことを追いかけているのかもしれない。 ベランダに咲く花も、何気なく買ったぬいぐるみも。 かける言葉が、見つからない。 沈黙が落ち着かず指先をいじると、不意に手を取られて唖然とする。 「…………」 「仕事、辞めんなよ」 「……はい」 松本さんが指導役、その偶然が今ではありがたい。 だが同時に、どうしようもなく逃げたい。 どこまで臆病なんだろう。 松本さんが優しくなればなるほど、深入りすることへの危険を感じる。 家に着き、陸を寝室に運ぶ松本さんの背中を呆然と見つめた。 心がないようでどうしてか何も感じない。 棒立ちする俺の心臓は異常な音を立てているのに、頭は冴えている感覚がする。 何もかも矛盾しまくりな自身に納得などできなかった。 「椎名? どうした」 「…………なん、でもないです」 一歩踏み出した瞬間、目の先の空間が歪み膝の力がガクンと抜けた。 「椎名っ」 「……あ、れ」 松本さんの顔にモヤがかかって見えない。 俺を支えているはずの手の温かさを感じられない。 目が回りそうな気持ちの悪い浮遊感とひどい虚無感、徐々にそれは膨大していく。 「松本、さん……松、本さん……」 声が聞こえない。どうして。 1人取り残されたような恐怖を感じた俺は、震える手で松本さんの存在を探した。 「どこに、いるんですか……松本さん……っ」 「椎名、大丈夫だ。ここにいるから」 「っ」 突然声が聞こえ、目の前に松本さんの顔が見えた。 確かに俺の手を握っていて、背も支えてくれている。 安堵した途端に視界がジワリとぼやけ、眠るように意識が遠のいていった。

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