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第51話

質素な廊下にフローリング素材の床。 玄関を入ってすぐ右手に電気のスイッチがあり、電気を点けると途端に足元がよく見える。 細い廊下の中央左手に収納スペース、右手には脱衣場とトイレがついていた。 なんだ、この部屋……快適すぎる。 風呂とトイレが別々になっているだけでありがたいというのに、脱衣場がヤケに広い。 1DKでも、一人暮らしには十分すぎる広さだ。 ベッドのある寝室を覗いた俺は、どういう訳かスーツも脱がずにベッドにダイブした。 「はあぁぁー……幸せだ……」 克彦といた頃は、こうして帰宅後すぐにベッドへ横になることは到底できなかった。 常に監視されている状態で眠るのも恐ろしかった。 ここにいる間は克彦を忘れられる。 そう思った瞬間、じわりと滲んだ涙が後を追うように溢れ出てくる。 「ッ……松本……さん、っ」 腕に溜めた布団を強く抱きしめ、その柔らかい感触に身を預ける。 ほんの少しの幸せが、どうしてか怖いと感じた。 松本さんはいつか俺の知らない綺麗な女性と陸との3人で暮らす日が来るはずだ。 それが不安で手が震えるというのに、松本さんに伝える勇気もない。 本当は一緒にいたいなどと、無責任なことは言い出せない。 「っ……松、本、さん……」 頭から離れない。 今日は結局、松本さんが宴会場で一日業務をこなしていた為に話すこともなく時間が過ぎた。 長い廊下ですれ違っても、あちらが他の社員と話していて軽く手を挙げる挨拶程度しか交わしていない。 昨夜、冷たいことを言ったからだろうか。 人情に厚いあの人の性格上、風邪を引いた部下を放っていくはずもない。 今さら後悔したって遅いだろ…… その時、テーブルに投げ置いたスマホが震え出し、反射的に飛び上がる。 淡い期待の中で画面を覗いたが、そこに表示されたのは松本さんの名前ではなかった。 「……はい」 『ちょっと優斗、あなた克彦の家を出たって聞いたけど、どういうこと!?』 「…………」 こんな気分の悪い時に、母の声。 それも克彦と離れたことを早々に嗅ぎつけたらしい。 一体どこまで鬱陶しいんだ。 『何が気に食わないって言うの? 仕事も行動も遅いあんたの為に克彦が頑張ってくれてたのに! 私の育て方が悪かったのねっ』 うるさい。 何も知らないくせに勝手なことばかり言って。 「克彦と俺は他人だ。社会人になってまで兄に世話にならなくても、もう1人で生きていけるんだよ」 『なんてこと言うの! それができないから言っ____』 声を聞く前に通話を切った。 できないって、なんだよ…… こっちは必死に勉強までしたのに。 子どもの価値は能力の有無だと訴えかけられたようだった。 なにも上手くできない俺は価値がない。 そんなこと、どうして実の親に決めつけられなければいけないんだ。 幸せなんて幻想だ…… 俺に幸せなんて、この先もくるはずがない。 ____ 人間の引き寄せ能力はバカにならないもので、その日から数日間松本さんの家に行くこともなくなっていた。 業務的な指示は受けるものの世間話を滅多にしない。 これでいいと望んだのは俺なのに、どこか心苦しく感じていた。 「椎名」 「っ、はい」 「この請求書、宛名が違うぞ。この企画書も本体価格で入力しろと言っただろ。やり直しだ」 「す、すいません。やり直します」 それだけ言って課長の元へと行ってしまった。 ふぅ、と小さくため息が漏れる。 なんでだろう……ここ最近、ミスばかりだ。 何度も見返して松本さんに提出しているのに、それでも見落としがある。 「松本さん〜、紬の宴会上手くいきましたよ。客は全て出ました」 「おぉ、そうか。やっぱお前をマネージャー候補にすべきだな」 「マジですか! やった! 今度飲みに行きましょうよ〜っ」 「最近まともに飲んでねえしなぁ。パァっと行くかーっ」 …………え。 マネージャー候補って。 ヘラヘラと笑って現場スタッフと話している松本さんを横目に一瞥した。 辞める、のか……? それはない、はず。 心臓の鼓動が徐々に早まり、あり得ない不安が過ぎる。 「課長もご一緒にどうすか!」 「うーん、そうだなぁ。酒は美味いからな」 「ちょっと課長、ウチの若いもんを祝ってやってくださいよ。確かに酒は美味いけど」 突然のことでワケが分からない。 嫌な汗が頬を伝い、首を振ってパソコンに向き合った。

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