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第52話
「松本主任」
先月分の決算書を見直していると、背後で聞き覚えのある声がした。
「ん? なんだお前か。主任なんて気持ち悪い呼び方するなよ」
「ふ、くくっ、お疲れ坦々麺。マッツン、今日飲みに行かねえ? 新メニューが入ったらしくてよ〜」
「今日はやたらと飲みに誘われるなぁ……婆さんに連絡しておくよ」
「悪いな、坊がいんのに」
確かに今日は、松本さんへの絡みが多い。
元々人気者だがいつも以上だ。
それがどういう事を意味しているのか、考えたくもなかった。
「椎ちゃんも一緒にどうよ」
「ッ…………はい、?」
突然谷口さんに視線を向けられて唖然とする。
ジワ、と手汗が溢れて思わず膝元に隠した。
「なん、ですか」
「酒飲めるんだっけ? つってオッサンしかいないけど」
「椎名は入寮の手続きだの色々とあんだろ。飲んでる暇ねえよ」
「…………」
やっぱり、避けられているのか……
ズキッと痛んだ胸が息苦しさを感じさせた。
「あぁ、そうか。まだ家電が揃ってないんだっけ? 寮は楽しいぞ〜。マンションの方は防音だし、叫んでもはしゃいでも窓さえ閉めてれば近所迷惑にならないんだ」
「……そんな叫ぶこと、ないので」
「ほんっと真面目だよなぁ。20代前半なんてやりたい事だらけだろ? もっと旅してみなよ」
一瞬松本さんと目線が交わったものの、すぐに逸らされ事務所を出て行ってしまった。
仕事中だというのに、思わず泣きそうになる自分が恥ずかしい。
もう家に行くことはきっとないだろうな。
楽しいと感じていた日々も、呆気なく壊れていく。
「____あれ? 椎名君、どうしたの」
喫煙所の前で1人ぼうっとしていた。
佐々木さんの声で我に返ったように顔を上げる。
「おつかれ、さまです」
「おつかれ。浅木君が心配していたよ? 椎名君が元気なさそうだって」
「…………俺はいつもこうです」
「そうかな? なんか、死にそうなオーラ出てるけど」
「本当に、何でもありません……」
「…………仕事、キツい?」
隣に腰掛ける佐々木さんの優しい声が俺の心を抉った。
首を横に振ると、余計に胸の奥が苦しくなる。
「我慢したら駄目だよ。松本からパワハラを受けてるとか、業務に支障が出てるとか、吐き出せる時に言った方が楽だから」
「…………」
松本さんが好きで苦しいと言えるはずがない。
仕事の悩みであればもう少しすんなりと言えたのかもしれないが、社会人にもなってこんな悩みを打ち明けるのはゲイである佐々木さんであっても恐ろしい。
忘れてしまいたい、あの男を。
ただそれだけなのに。
「松本が放っておけないと言っていた意味が、なんとなく分かるなぁ」
「え……?」
「いや、椎名君って手先も器用だし頭も良いのに、なんか不器用なとこあるよね」
「…………」
「あ、ごめんっ。そういうところ可愛いなって意味で言ったんだけどね。褒め言葉のつもりなんだけど……っ」
「大、丈夫です。褒められるの、慣れてなくて……」
不器用、本当に褒め言葉なのだろうか。
俺は何年もその言葉に縛られて改善しようと強迫的に生きてきた。
松本さんにも言われたそれが、少し悔しい。
佐々木さんの背後に松本さんの姿が見えた。
だが、こちらに向かってきているのが分かると途端に逃げたくなり踵を返す。
「あれ? 椎名君」
「すいません、休憩室行ってきます」
「え?」
佐々木さんに用事があったのだろう。
背を向けて早足にその場を離れると、また胸の奥が苦しくなった。
「…………もう、忘れたい」
仕事を終えて事務所のデスクに突っ伏す。
松本さんは俺と話す時だけ、やけに不機嫌だ。
先ほども俺の判断ミスであるはずのない請求が生じてしまい、「なにやってんだ!」といつにない叱責を受けた。
いつもなら挽回できていた失敗も酷くのしかかってくる。
望んでいたんじゃないのか。
自分で、こうなれば良いと思っていたじゃないか。
陸の親は普通であってほしい。
俺に陸の将来を背負う勇気もなければ、松本さんにいつ飽きられるかも分からなかった。
だから、これは俺が深く傷つく前に引き離されたんだ。
もう忘れてしまおう。
その場を立ち上がり何かの決心がついた俺は、誰もいない事務所を振り返ることなく後にした。
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