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第53話

「____いらっしゃいませ」 一度だけ来たことのある懐かしい内装。 色鮮やかなパイプが背後に輝くカウンターで、ベストを着たオールバックの男がカクテルを注いでいる。 テーブル席は7席、まるで宇宙が広がっているような夜空の描かれた半透明のテーブルで、現実逃避を誘っているような。 克彦に一度だけ連れてこられたここは、都内ではあまり有名でないゲイバーだ。 男かニューハーフしか入ることはできないし、バーでは珍しく刺青の見える人間の立ち入りを禁じられている。 出会いの場にはもってこいだとマニアの間では人気なようだ。 「どちらをお召しで?」 「……すいません、お勧めのものをください」 「かしこまりました」 カウンター席に腰かけ周りを見渡す。 敷居の高い場所に来るのは気が引けたものの、同じ系統の人間しかいないと思えば随分と楽だった。 何も臆せず素直にいられるのは心地がいい。 「こちら、ジャックダニエルでございます」 「ありがとうございます……ウイスキー、ですか?」 「はい。アメリカのテネシー州で造られておりまして、アメリカンウイスキーの中でも最も人気のあるウイスキーでございます。バニラのような甘く深みのある味わいが特徴です」 普段、滅多に口にしない酒に少し躊躇う。 かと言って知らないカクテルを無差別に頼むのは恐ろしい。 口付け程度に飲んでみれば、苦みの中に仄かな甘さがあって俺の好みに合っていた。 「ねえキミ、隣いいかな?」 「__」 仕事帰りなのか、紺のスーツを着た茶髪の男がカウンターに肘をついた。 「……はい」 「ありがとう」 男は20代後半ほどに見える。 松本さんと同い年くらいか、もしくはもう少し下だろう。 こんなときにも出てくるあの男の顔をかき消すようにウイスキーを口に含む。 「俺は田辺薫。キミは?」 「……椎名優斗、です」 「優斗か、かっこいい名前だね」 「べつに普通です」 いつもの癖で冷たく言うと、田辺は楽しげに笑った。 「優斗は酒に強いの?」 「いえ、そんなに。田辺さんは強そうですね」 唐突に名前で呼ばれるのは苦手だ。 この場はそういう所だと分かっていても、少し抵抗がある。 「薫って呼んでくれないか? 俺だけ名前って、なんだか寂しいよ」 「…………薫、さんで」 そういえば……松本さんの名前、なんだっけ。 ダメだ、考えるなよ。 あの男を忘れるために来たのに。 薫さんは相手を乗せるのが上手い人間のようで、俺への気遣いが紳士並みだった。 普段から他人に優しく接する事が当たり前らしい。 ビターチョコレートのミルフィーユを頼むと、上品な手つきでフォークを入れる。 「はい、口開けて」 「……え?」 「これ美味いんだよ。チョコは嫌いかい?」 「いた、だきます」 まるで恋人のようなシチュエーションだ。 違和感があってやり切れない。 「マスター、カシスオレンジを頼むよ」 「かしこまりました」 常連なんだろう。 マスターとは親しい間柄にも見える。 「優斗は今いくつだ? 俺は25なんだけど」 「21です」 「ピチピチだね〜。早めに声かけて良かった」 「? なんでですか?」 「その顔、本気? 優斗を狙ってそうなやつが結構いるんだけどね」 そう言ってテーブル席へと目を向ける薫さんの言っている意味が分からない。 こんな地味な男に声をかける物好きは薫さんくらいだろう。 他の客は髪色も見た目も目立つ人間ばかりで、さすが東京と感心してしまう。 「頬赤い」 「言わないでもらっていいですか……酒、そんなに強くないんです」 「あはは、不機嫌な顔も可愛いな。家はどこら辺?」 「家なんてないです」 「は?」 「あ、いや……社員寮、なんで」 頭が正常に回っていない。 家がないなんて、とんでもない爆弾発言だ。 「ビックリしたぁ……まぁでも、家がなかったらなかったで泊まりに来なよって言ってたと思うけど」 「…………チャラい、ですね」 「なっ、こう見えても好青年だぞ?」 こうして男と関係を持つのは、なぜだか久しぶりのように思えた。 これで良いんだ。これで。

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