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第56話

忘れろ、松本さんと俺は他人であって何の関係でもない。 強いていえば上司と部下だ。 そう言い聞かせて横断歩道を渡ると、気付かれないように早足で歩いた。 「あ、ゆうしゃんだ! ゆうしゃん!」 「っ」 陸の声にギクッとして、逃げるべきかと躊躇う。 だが、嬉しそうに歩道を渡り駆け寄ってきた陸を前に逃げ出せなくなった。 「ゆうしゃぁーん!」 「っ、触るなよ!」 手に触れられた瞬間、なぜか恐怖を覚えて跳ね返してしまった。 ハッとして後悔しても遅く、陸が目元に大粒の涙を浮かべる。 「ゆう、しゃ……っ」 「あ……ご、ごめん。違う、陸に怒ったんじゃなくて……っ」 「そんな言い方しなくてもいいだろ。陸だってお前に会いたがってたんだから」 「ッ」 今まで世間話をしなかったのが嘘のように、松本さんは穏やかな口調をしていた。 「…………すい、ません」 あんなに避けていたのに、間近にいると何も言えなくなる。 陸に当たってしまったことを後悔したところで、何も解決しないのは目に見えていた。 松本さんの背後に隠れ、涙を流す姿に胸が苦しくなる。 「ゆしゃん……おこった、おこった……」 「陸、怒ってないから大丈夫だ。あそこのお姉さん、束作ってくれてるからもらってこい」 「うん……っ」 松本さんに涙を拭われ、周りを見ながら花屋へ戻っていく陸。 自分の不甲斐なさに唇を噛むと、微かに血の味がした。 「おい椎名、お前……なんで俺を避けてんだ。それもあからさまに」 「…………は、?」 「は? じゃねえよ。付き合おうっつったのがそんなに嫌だったのか」 「嫌だ、ったって……俺は、別に」 「別にってなんだよ。休憩時間もさっさと席を外してんだろ、何が気に食わないんだ」 愕然として声も出ない。 初めに避けてきたのは松本さんの方じゃないか……! そう叫びたい気分だったが、聞きたいことが山ほどあって混乱する。 「……もう、家にはお邪魔しません」 「はぁ?」 「彼氏、できたんで。もう松本さんの家に行くこともないです」 「ッ! ……お前、それどういう」 「陸には悪いですけど、そういう事なので仕事以外の話は控えさせていただきます」 顔を見れなかった。 淡々と告げた俺の唇は震え、手にはひどい汗をかいている。 どうしたらこの心が晴れてくれるのか、考えても救いはない。 「それでは失礼します」 「おい椎名ッ」 陸がこちらに向かって走ってくるのが視界に映ったが、背を向けてからは振り返ることはなく寮の方へと去った。 「____」 終わった。 松本さんとの日常も、陸と過ごしたほんの少しの幸せも、全て消えてなくなった。 人気のない路地を重い足取りで歩きながら、晴れた空を見上げる。 ……嫌いだ、こんな空。 どうして苦しい時に限って、空を見上げてしまうのだろう。 そして皮肉にも空はいつも晴れている。 「う……うぅ……っ」 涙なんて枯れてしまえばいいのに。 松本さんの声が脳裏に張り付いて離れない。 苦しい……消えたい…… こんな感情を抱えていると知られたら、それこそ気持ち悪がられそうだ。 コンクリートの壁に凭れ、スマホを開いた。 画面には薫さんからのLINE通知が表示されていて、反射的に押した。 《薫だよ。よろしくね(ง`0´)ง》 可愛らしい顔文字とともに打たれている成人男性らしからぬ文面に眉をしかめる。 あの人はゲイだからか、少し中性的な印象も受ける。 だからなんだろう。 俺の生きる世界は本来こちらなのかもしれない。 《ブロックします》 そう打ってLINEを送った時、数秒ほどで返事があってビクッと肩が揺れる。 《ナマイキ。でも可愛い》 …………これじゃあ、彼氏とLINEしているみたいじゃないか。 というか彼氏、ではあるのか。 松本さんとは一度もしたことがないのに…… 薫さんとLINEでやり取りしているうちに、涙は止まっていた。 仕事場に着いたのか、薫さんからの返事が途絶えた頃に寮へと戻った。 思っていたよりも優しい人で良かった。 薫さんが闇金稼ぎの男であれば、俺は今頃ここにいないだろう。 泣き疲れて気力が湧かないまま上着を脱ぎ捨てると、玄関で倒れるように横になる。 克彦がいたらこんな事死んでもできないが、今はそういう目もない。 ひとりは自由だ。 こんな幸せなこと……他にない。

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