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第59話
「お前さ、なんで俺の目見て喋らねえの。彼氏ができたんなら堂々と報告すればいいだろ。仕事以外の話はすんなって、正直意味分からないんだけど」
「っ……」
それはそうだ。
確かに谷口さんや佐々木さんに報告するのであれば、俺はもっと普通に話していただろう。
淡々と業務的に告げ、ましてや今後一切しゃべるなとでも言うような態度を取ってしまうのは松本さんだからで。
結局それも、世間話をすることで自分が苦しくなるのが嫌だからだった。
「おい椎名、こっち向けって」
「やめ……やめてください。あんな関係、もう嫌だったんです。上司と、部下なのに」
「……それ関係あんの」
「あります。陸だって小学生になるし、父親が男と関係持ってるって知られたらつらい目に遭うかもしれないじゃないですか……」
苦しい、辛い、悲しい。
その全てを松本さんや陸が体験するのは怖くて仕方ない。
俺が離れてしまえば、きっとそんなこともなくなるんだ。
誰も傷つけずに済む。
「だからあんな関係続けるくらいなら俺は……んん、っ」
熱い唇が重なり、一瞬何が起きたのか理解できなかった。
忘れてしまおうと思っていた松本さんの肌の感触と熱。
首筋に宛てがわれた手に心臓が激しく律動する。
「ん、ふっ……ぅうん……っ」
彼氏がいると、言ったのに。
もう離れてしまおうと思っていたのに。
松本さんの温かい腕に抱きしめられた瞬間から、全ての決意が粗い泡のように溶けていった。
「ぁ、ん……んぅ、はっ……はぁ…………」
「椎名……」
「ん、……松本、さん……っ」
堪えていた欲が溢れて、とんでもない事を口走りそうになった。
「ね、寝なくていいんですか」
「起きてすぐは手足が痺れて陸の手も握ってやれなかったんだけど、今はなんともない」
「そんな事言ってまた倒れたらどうするんですか……」
涙が出そうになって堪えると、松本さんが柔らかい笑顔を浮かべた。
「椎名、今日はウチに来い。陸がどうとか会社がどうとか一々気にすんな。……できんだろ?」
「っ…………」
松本さんの手に頬を挟まれ、拒否できなくなる。
彼氏は松本さんと関わらないための口実だと思われているらしい。
コクリと頷いて見せれば、ひどく安堵したようにもう一度キスをされた。
『____もしもし』
「薫、さん」
まるで全てを悟ったように笑った薫さんに、罪悪感が芽生えた。
『大丈夫だったかい?』
「はい……それで、その……」
『終わりにしよっか』
「え……?」
『どうやらキミは、そう簡単に落とせないらしいし。……そもそも、好きな男を忘れたいって理由で来てる時点で未練ありまくりなんだよ。俺には勝てない、昨夜そう確信したんだ』
恥ずかしい。
よくよく考えてもみればそうだった。
松本さんを忘れたいと言いながら、行動も体も意識しまくりだ。
「す、すみませんでした……」
『謝られると余計虚しくなるから。最初から駄目だと分かっててキミの連絡先を聞いたのは俺だし、お互い様ってことだよ』
「…………分かってて、あんな優しくしてくれた、んですか」
『だって可愛いし。寂しさを埋めたくて俺に縋ってくるところとか、本当可愛かったよ。じゃあ俺はこれから用事があるから、連絡先は消しておいて』
じゃあね、と若干早口で告げた薫さんに何も言えず通話が終了した。
相手が薫さんでなければ、どうなっていただろう。
松本さん以外の男と寝てしまったことを今さら恥じて、手が震えた。
松本さんは夜には退院できると言っていた。
俺の手の中には、合鍵がある。
どうしようもなく溢れそうになる涙はここで流すわけにいかないと必死に堪えた。
結局、本人を目の前にすると言えない。
松本さんが欲しい気持ちばかり増えてきて、制御できなくなる。
松本さんの家に着くと震える手で鍵を開けた。
本当に良いのだろうか、俺がここにいても。
玄関の懐かしい木製の床。
先に続くリビング。
数週間ぶりに来た松本さんの家。
叫びたいほど気分が高揚している。
陸が散らかしたオモチャが窓際に投げられていて、フゥっと息をついた。
やばい…………すごく、幸せだ……
そう思った途端に眠気に誘われ、俺はその場で倒れて意識を手放したのだった。
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