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第64話

「椎名ー、ビールくれよ」 「っ! て、なんで裸なんですか!」 流れのままではなく、ようやく正式に松本さんと付き合い始めて1週間。 日に日に遠慮のなくなっている松本さんには混乱させられる毎日だ。 「裸って、パンツ履いてんだろ」 「変わんないですから! ビール、そこにあるんで」 目のやり場に困り顔を逸らしたまま冷蔵庫を指さす。 ベランダの方へ目を向ければ、陸が楽しそうに花の水やりをしていた。 本当に、付き合っているんだ…… 信じられないが、どうやら間違いないらしい。 「なぁ」 「ッ!!」 背後から肩に回ってきた腕に心臓が跳ねる。 露出した松本さんの上半身が視界に入ってくると、脳震盪を起こしかけた。 「く、くっつかないでください!」 「なんでだよ。椎名、一緒にどうだ」 「……嫌ですよ、オッサンくさいし」 「だーれがオッサンだ。俺はまだ27だっつの」 「散々自分をオッサンだと言ってた人が何を今さら……ひあッ」 突然服の中に侵入してきた指が乳首を掠め、意味の分からない声が出てしまった。 反射で松本さんを殴り距離を置く。 「な、バカなんですかッ! 朝っぱらから!」 「……いってぇ、顔面なくなるだろうが」 「自業自得ですよ……陸がすぐ近くにいるのに」 「そう照れんなって」 殴りたい…… なんで俺だけ余裕がないんだ。 本気だと言っていたのが嘘なのではと疑ってしまう。 これが松本さんだからと頭では分かっているのに。 「ゆしゃんー、見てみて。バラのお花とったぁ」 麦わら帽子を被った陸が一輪のバラを手にこちらへ這ってくる。 「陸、靴くらい脱げよー」 「これゆうしゃんにあげるー、あい」 「え……俺に?」 「マーちゃんがね、だいすきな人にはバラのお花あげるんだよって、いってたの」 「…………」 大好きな人、って。 それは違う意味じゃ…… 「こらぁ、マセガキ。また変な知識を覚えてきたのか」 「ひゃはは! パパやだ、くすぐったいぃ!」 陸を簡単に抱き上げ笑わせている松本さんは、病室で見た時とはまるで別人だ。 元気になってくれたのだと実感するほどホッとする。 「もう、真夏なんですね……」 「今さらか? 暑くてやれねえよ」 「パパ、陸もフクいらないー」 「ダメだ、服脱いで外出たら焦げるぞ。陸の唐揚げができちまう」 「パパも、からあげなるよ?」 陸が純粋すぎて、腹を抱えて笑いそうになる。 …………本当に、幸せだな。 「今日はどこ行くかなー。居酒屋か、居酒屋かぁ……」 「陸、こっちおいで。その人頭おかしいから」 「あたまおかしいっ」 「おいコラ、誰がだよ」 膝の上に乗ってきた陸の靴を脱がせ、手元のチラシに乗せる。 やたら神経質な俺と多少の事は気にしないガサツな松本さんとは、こういうところが少し気が合わない。 「そういや陸、ニンジンは?」 「たべたっ」 「……じゃなくて、ぬいぐるみの方な」 「あっちある」 「いっつも持ってたのに大丈夫なのか?」 「うん、ゆうしゃんがいい」 「は」 そう言って抱きついてくる陸に困惑した。 頑固なくっつき虫………… 俺も、虫除けスプレーを付けた方が良いんじゃないのか。 「あ……松本さん、あの」 「ん? 何」 「煙草……吸わないんですか?」 いつかに谷口さんから聞いた事情。 あれが本当なら、何だか申し訳ない気もする。 「いや、俺はそんな吸わねえよ」 「でも全く吸わないわけじゃ、ないですよね?」 「もうやめた」 「へ?」 「お前、煙草すげー嫌いっぽいし」 「別に……そんな気遣わなくても」 目が合うとフッと微笑まれ、挙動不審に視線を泳がせてしまう。 「俺が嫌なんだよ、そういうの。気遣うわけないだろ〜面倒くせえし。おい陸、そんな真剣に見てもやらねえぞ」 面倒くさいなんて言ってるが、俺に気遣わせないために言っているようだった。 無意識に鍛え上げられた筋肉に目線が行き、熱くなる顔を腕に隠す。 もう嫌だ……そうだ、さっさと朝飯を作ろう。 明らかに動揺している心が指先の震えとなって現れる。 キッチンへ向かい、一度だけ手をギュッと握った。 「おさけ、おいし?」 「マッズイよ。吐くくらい」 「ヘンなの! おクスリのんでる!」 「そうなんだよ、酒は薬だ」 「ばっちい! 陸それいらないっ」 「ばっちいとか言うなよっ」 頼むから、落ち着いてくれ…… こんな日常、今までだって何度かあった。 それでも無意識のうちに反応している体に嘘はつけない。 涙こそ流さないものの、心はいつでも泣ける準備が既に整っていた。

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