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36-1 あげません、俺のだから

 美術室の窓辺の作業台で、ベニヤパネルに水張りした水彩紙に向かうこと1時間弱。水曜日にペンを入れ始めた下描きを完成させて、色を乗せた。  モチーフはデカい実と木と鳥。今日はまだ時間あるけど、乾くまで次の塗りは重ねられない。  もう1枚、下絵を描くかなって新たなパネルを準備したところで。 「早瀬さん」  呼ばれて見ると、1年の津田が開いたドアの前に立ってる。 「お客さんです」  客? 涼弥か……? 「今行く」  もの思う表情で作業台に戻る津田とすれ違い、ドアの外にいる人物と向き合って息をのんだ。  南海(みなみ)……!? もう来たのか? 早いじゃん……! 「早瀬將梧(そうご)くん。はじめまして、かな」  初対面の体……で、俺も対応すべきだよな?  今朝、目が合ったけど……話したことないし、俺が顔と名前知ってるのも変だし……。 「え……と」 「俺は南海晃大(こうた)。よろしく」 「よろしく……南海さん。あの……俺に何か……?」 「先週撮ったキミと杉原くんの動画は、友達が俺のために撮った」  唐突な言葉に、驚きの瞳を向ける。 「あ……なたの……ためにって……」 「そう。今ちょっと時間いい? 話があるんだ」  ニッコリと。悪意皆無の笑みを、中性的で涼しげな顔に浮かべる南海。ほんの少し高い位置から俺を見つめる瞳は……読めない。何も。  笑顔のおかげで少し人間味を増してるけど、どこかまだ人工的っていうか……作りモノっぽい。  きっと、この男の表情に感情は出てない。ポーカーフェイスと渡り合うのは……分が悪いな。  黙ったままの俺を、南海が首を傾げて見つめる。 「あ。やっぱり警戒する?」 「いえ……はい」  ここはキッパリ。アッサリ乗ったら俺、救いようのないバカだろ。 「ここはダメかな? 部長は八神か……シン!」  美術室の中を覗き込んだ南海が、声量を上げて呼んだ。  ドアの向かいの窓際にイーゼルを立て、20号のカンバスに筆を走らせてたシン先輩がこっちを向く。 「何か用?」 「早瀬くんと話したいんだけど、ここいい? すみっこで邪魔にならないようにするから」  俺と目を合わせたシン先輩が、珍しく好奇心を見せる。普段のこの人は、およそ他人への興味を示さない。 「南海に声かけられるなんて、何かトラブル?」  動画は気にしないとすれば、何も起きてない……まだ。 「いえ。何も……ないです」 「將梧がオーケーなら、ここで話すのは問題ない。だけど、静かだから……人に聞かれたくない話は、よそでしたほうがいいと思う」  シン先輩の言う通り。  内容はわからずとも。南海の話が、誰に聞かれても平気な確率は高くなさそうだ。 「先輩。準備室、使っていいですか?」  思いついて聞いた。  あそこなら、普通に話してる声はほとんどこっちに漏れないし。もしもの時は、大声出せば異変に気づいてもらえるしね。 「かまわない」  許可を得て、一歩下がると。 「ありがとう」  俺とシン先輩の両方に向けて礼を言い、南海が中に入ってきた。  気乗りはしないけど、むげに断るのも気にかかるって理由で。どこか掴みどころのないこの男と、準備室へと歩き出す。 「將梧」  後ろから、シン先輩の声。 「はい」  振り返った俺を先輩が見つめる。 「南海は悪知恵が働く悪党だ。ウッカリ騙されないように」 「ひどいな」  背後から、南海が言う。  否定しないのは、事実だからか……?  それにしても、悪党って……そういう評判の男なのか、個人的な認識か。  シン先輩に軽く頷いて、南海に向き直り。ノーコメントで薄く微笑んで、足を進めた。  美術準備室にイスを二つ運び込み。雑多な部屋の空いたスペースに、南海と向かい合って座った。  美術室へのドアも、廊下に出るドアも閉めてある。狭い空間に二人きり……今のところ、身の危険は感じない。 「話って何ですか?」  雑談を省くために、自分から口を開いた。 「あの動画のことなら、どうされてもかまいません」 「敬語じゃなく普通に喋っていい……本音でね」  南海が笑みを浮かべる。 「動画はどうもしないよ。もう十分役に立った」 「……水本が涼弥を脅すのに使ったから?」 「杉原涼弥。キミとつき合ってるのかな?」 「はい。だから、あれが俺たちの弱みにはならない」  問いを返され、先に答えた。 「はじめから、弱みを握ろうなんて思ってないよ」  微かな笑みを口元に残した南海が、溜息をつく。 「友達の桝田(ますだ)隼仁(はやと)って男に、杉原くんを観察してもらってたんだ。いい()が撮れそうならお願いってね。淳志(あつし)とは物理室の近くで偶然一緒になっただけらしい」 「は……!? 涼弥を……!?」 「そう」 「あなたが……どうして……」 「杉原くんをモノにしたい。何故か、無性にほしくなった。調べても浮いた噂がないから、ゲイかノンケかわからなくて……攻略方法を探ってたんだ」  言葉を発せない俺に、南海が続ける。 「キミとのキスシーンは思わぬ収穫だったよ。淳志があれを利用して杉原くんを痛めつけたのは計算外。二人が仲悪いの知らなくて……ごめんね」 「いえ……じゃない……その……」  考えがまとまらない。  桝田があの動画を撮ったのは、涼弥を狙う南海が頼んだからで。  水本がいたのは偶然だという。   上沢に、南海が俺を狙ってるって聞いた。  それに便乗して、水本が涼弥にまた何かするかも……って。  話がかみ合わない。  上沢の情報は江藤から。その前は、水本。水本に話したのは本人……南海のはず。  水本が勘違いしたか、南海が嘘をついたか。 「涼弥がほしいって、どういう意味で……?」 「まんまだよ。手に入れたい。身体か心か、両方か」 「あげません。俺のだから」 「だよね」  南海がおもしろそうに笑う。 「動画見て、杉原くんがゲイだって知って。同時に、キミを好きなのもわかって……俄然やる気になっちゃった」  眉間に皺を寄せる俺。 「杉原くんが俺になびかない自信ある?」 「ある」 「何をされても?」  何する気だ……!?  そう聞きたいのを堪えて。 「はい」 「じゃあ、遠慮する必要ないよね」  言い切る俺に、南海がずいっと顔を寄せてきた。 「杉原くんを誘惑していい?」 「どうぞ」  南海の瞳を間近に見据え、冷静に答える。  全く動揺してないわけじゃない……けど、動じたらダメだと思った。 「俺が止めたり許可することじゃない」 「彼が、俺の誘いに応じたら?」 「それが涼弥の意思で選択したなら、どうもしない……どうしようもないだろ」 「そう……じゃあ、不可抗力の場合は? こんなふうに」  言うが早いか。  至近距離にあった南海の唇が、俺のに重なった。

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