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第2話

 慣れ、というものは恐ろしいと思う。  シャコ、シャコと洗面台のもとで歯磨きをする犬塚奈留が鏡に映っている。何も変わらない普段の俺の日常だ。ただ、その頭に犬の耳が映っている以外は……。  一週間前、高ノ宮 苑博士に試作品のクスリを飲まされた。すると、どういう仕組みか犬耳と尻尾が生えてきたのだ。  それから調べるためと言われ博士に色々されたが……そこは、割愛させてもらう。  数日前までは、鏡を見るたび自分の頭から生えているものに驚いていたが今では、生えてるなぁーぐらいしか思わなくなっていた。  慣れというものは恐ろしいものである。いや、ほんとうに。  口の中に溢れる歯磨き粉を水でゆすいで吐き出す。そろそろ、朝ごはんの支度をしなくては、博士が起きてきてしまう。  俺は、口をタオルで拭うとキッチンへと急いだ。 「ううう、いい加減ちゃんとしたご飯がたべたいよー」 「……今日までの辛抱です」  俺の前に並ぶのは、ご飯に味噌汁、オムレツにほうれん草。対して、博士の前に並んでいるのは、卵かけご飯だ。ごはん抜きにしなかっただけ感謝してもらあたい。 「あのね、奈留くん」 「なんですか?」  食事が終わってお茶を飲んでくつろいでいる俺に、ニッコリと博士が笑いかける。嫌な予感しかしなかった。 「これから、お願いしたいことがあるんだけど……」  ピンポーン。  普段は鳴ることのない呼び鈴が来訪を告げる。博士のお願いを聞かなくてよくなった俺は上機嫌で「はいはーい」と返事をしながら玄関に向かった。 「……どなたさま?」  玄関を開けた先に立っていたのは、黒髪でスラっとした高身長の男。顔立ちの良さと着ているものの高級感に、自分とは住む世界の違う人ということがよくわかる。 「奈留くん、紹介するよ。今回の依頼人の遠山さま」 「依頼人……?」  依頼人だという遠山さまは、ジッと観察するように俺を見ている。それは居心地のよいものではない。 「獣耳の効果が知りたいっていうから来てもらったんだよ」 「あ、二億の人!」  依頼人ってこの獣耳のクスリを依頼した人か。こんなにも見られているのは、依頼人だからなのかと納得する。  遠山さまは、何を思ったのか。手を伸ばすと俺の尻尾へと触れてきた。 「ひゃあっ!?」 「と、遠山さま。触れるのはおやめください」  すぐさま博士が間に入ってくれた。博士の後ろに隠れながら様子を伺うと、遠山さまの眉間にシワが出来ていた。 「尻尾自体に触覚があるのか、知りたかった」 「それならば、僕が代わりに確かめます……とりあえず中にどうぞ」 「え、博士?」 「わかった」  遠山さまを中へと招き入れる博士の腕を掴むが、逆に腰をつかまれ「大丈夫だよ」とソファーへ誘導される。  大丈夫じゃない! 全然大丈夫ない! 嫌な予感しかしない!と訴えるがひとつも聞いてくれない。  博士がソファーへと座るとその上に座らせられる。腰に回った腕をみて、逃げられそうにないなと天井をみつめた。遠山さまは俺の目の前にあるソファーに座り、腕を組んでは観察する体勢になっている。 「ごめんね、奈留くん」  耳元で博士がそう囁く。謝るくらいならこの腕を離してくれと思うが、離す気があるなら最初から掴んでいないだろう。 「このように、尻尾をなでますと……」  始まってしまったとなるべく遠山さまを見ないように顔をそらす。  するり、するり、と尻尾を手のひらで撫でられる。あまりの心地よさに、ピクピクと身体が反応してしまう。 「奈留は、尻尾の付け根が好きなんですよ」 「ぁ、やぁ……」  付け根をさすられ思わず甘い声がもれる。猫ではなく犬なのに、どうしてそんなところが心地いいと思うのか不思議だ。今度姉が飼っているダックスフンドのココを撫でてみようか……この耳と尻尾が治ったらだけれど。 「耳はどうなんだ?」 「耳、ですか」  耳の裏を撫でられ、身体が反応しているのを見ると遠山さまは満足気に頷いた。 「そろそろ、奈留も限界のようですし……もういいでしょうか?」  終わる。その事にホッと胸をなでおろす。安心したのもつかの間、いきなりソコを掴まれた。 「あっ」 「たっている、これでは苦しいだろう。最後まで付き合ってやったらどうだ」 「しかし、遠山さま……」 「やれ」  依頼人の言葉に、博士は従うしかない。だって、二億だ。こんな大きな依頼を逃したくないだろう。  俺は覚悟を決めて服を脱ごうと自らボタンに手をかけた。 「……博士?」  博士はまるで止めるように、俺の手を掴んでいた。 「遠山さま、申し訳ありませんがソレは承諾いたしかねます」 「できないのか? 依頼人だぞ?」 「はい」 「この依頼をなかったことにされてもいいのか?」 「構いません」 「そうか」  遠山さまはおもむろに立ち上がると俺の頭を撫でて、ふわりと微笑んだ。 「すまなかった。ツライ思いをさせたな」 「……え?」  急展開に頭がうまく回らない。助けを求めるように博士をみると俺の肩に頭を置いて深くため息をはいた。 「タチが悪いですよ」 「すまんな、お前に助手ができたと聞いてツイ、な」 「え……え?」  戸惑う俺の頭を博士が撫でると少しだけ安心してしまうのは、博士も安心したかのように穏やかに笑っているからだろうか。 「奈留くん、どうやら遠山さまに試されていたらしい」 「はぁ!?」 「苑とは高校時代からの知り合いでな、変人で他者をあまり寄せ付けない彼が、助手をもったと聞いて……苑にとって君がどんな立ち位置にいるのか、みせてもらった」  すまない、と頭を下げる遠山さまに俺は慌てて顔をあげるようお願いした。 「あ、じゃあこの依頼もウソ?」 「いや、依頼はウソではない。クスリ、楽しみにしているぞ」  キラキラとした期待の眼差しで博士を見る遠山さまも、十分変人なのだと俺は思った。 *** 「今日は、ありがとう。騙すみたいな形になってしまいすまなかった」 「いえ、博士のこと気にしてくださりありがとうございます」  そう挨拶を交わし、遠山さまは帰って行った。バタン、と閉められた扉をしばらく眺めているとぎゅっと後ろから抱きしめられる。 「今日は、ほんとにごめんね。奈留くん」 「……慣れたくないですけど、もう慣れました」  ふいっとそっぽを向くのは今ぜったいに顔が真っ赤になっているだろうからだ。気づかれているだろうけど、ちょっとした抵抗をしてみせる。  変人だけれど憧れていた博士にあんな風に助けられてしまっては、ときめかないわけがない。 「奈留くん、真っ赤だよ?」 「知ってます。気にしないでください」 「やだ、気になる」  無理やり体を博士の方に向けさせられて、俺はとっさに顔を隠した。 「どうして、赤いの? 僕に惚れちゃった?」 「何言ってるんですか」 「あー、うん、そんなことないよね……」 「最初から博士に惚れてます。でもあんなカッコいい姿見ちゃったら、さらに好きになっちゃうじゃないですか。どうしてくれるんですか!」 「…………奈留くん!」  我慢ができないと博士に押し倒される。家の廊下は硬いし冷たいしで最悪なのだと怒ろうとしたが、嬉しい嬉しいと博士が顔を真っ赤にして喜んでいるので毒気を抜かれた。  博士も俺とお揃いの表情をしているならまぁいいか。

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