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第3話

 由幸は基本的にBLコーナーに立ち入らない。  そこは腐女子のお姉様方の聖地であり、男性店員がうろつく事は彼女達の憩いのひとときを邪魔しているような気になるからだ。例えば、コンビニの十八禁雑誌を女の子の店員から買いづらい、そういう意識と似ていると思う。  しかしその高校生は、女性ばかりのその聖地へ堂々と顔を上げしっかりした足取りで向かう。周りのお姉さん達の二度見なんか全く眼中にない様子で、コミックを手に取り見つめる姿は凜としていた。  最初は場違いな男子高生の登場に内なる動揺を隠せていない腐女子のお姉様方も、彼の真剣な眼差しに『仲間』であるとすぐに確信するようだ。彼が棚を見ながら歩むとその行く先をそっと譲り、彼女達は空気と化す。  じっくりと棚を見て歩く優雅な足取り、男同士が微笑み合う表紙をじっと見つめる真剣な眼差し、その綺麗な横顔を見て、由幸はこっそりと彼にあだ名をつけていた。『王子』、と。  ここ最近、この店舗のBLジャンルの売り上げは無視できないほどに育ってきている。腐女子という言葉が市民権を得たことも一因だろう。  売り上げが伸びると共にBLコーナーは少しずつ拡大されてきていた。そして店内の二カ所あるレジの、コミック売り場のレジに女性の店員が入る事になると、BLジャンルは更に売り上げを伸ばし始めた。専門店ではないものの、由幸の勤める書店も協力書店としてBLコミックにペーパーがつくことが増えた。  ペーパーとは販促のために作家が書き下ろしたオマケみたいなものである。ペーパーやクリアファイル、ポストカード、それらは書店ごとに配られているものが違ったりするらしい。コアなファンはそれ目当てに色んな書店で特典つきの同じタイトルの本を買ってまわるというから、オマケだって馬鹿にはできない。  今日発売の新刊にもペーパーがつく。その新刊、きっと王子は買いにやってくるだろうと由幸は確信していた。  先週、王子はこの新刊のシリーズ既刊本五冊を棚からごっそり抜き、大人買いしていたのだ。さっきからペーパー効果か知らないが、その新刊を手にレジへ行く客が増えた。  朝にはドンと積んでいたはずなのに、見るともう三冊しか残っていない。そしてまた会社帰りのOLらしき客が一冊手に取りレジへ向かった。 「あ~……、あと二冊……」  王子くん! 何してるんだ、早く来ないとなくなっちゃうよ…!  由幸がやきもきしている間にまた一冊減っていき、もう本当の本当に最後の一冊となってしまった。  専門店では人気のBLコミックはちょっとしたオブジェが作れるくらい入荷することもあるらしいが、由幸の勤める店舗は一般書店だ。やはりBLの新刊売り上げは専門店には及ばない。  そうなると新刊の入荷数も専門店よりは少なくなり、BLというマニアックなジャンルはどれほど人気の作品でも二、三十冊しか入荷しないのだ。  それでも他の一般書店よりは多い方で、町の小さな本屋さんでは一つのタイトルで二、三冊入荷すれば良い方だろう。入荷数はその店の売り上げ実績に確実に比例するのだ。 「あ~……、もうっ……!」  由幸は我慢しきれず残った一冊を手に取りコミック売り場のレジへ向かった。  朝の時点で十五冊入ったので余裕かと思っていたのに、ペーパー効果、侮れない……。次に取次の営業さんが来た時にはもっと新刊の入荷数増やしてもらうようにお願いしよう……。  そんな事を考えながら、由幸はレジに立つバイトの女の子に声をかけた。 「これ、取り置きで」  アルバイトはちらりと表紙を見て小首を傾げた。 「これ、向井さんが買うんですか?」 「違うよ、お客様の」 「はあ。お名前は?」 「え」  アルバイトは鉛筆を手にし、由幸の返答を待っている。 「お客様のお名前、何ですか?」  予約や取り置きの商品には渡し間違いがないようにお客様の名前を書いたメモをつける。  そういやあの子の名前なんか知らないや……。当たり前だけど。  ずっと脳内で王子、王子と呼んでいたので、仕方なく由幸は「王子」と告げた。 「はあ。お、お、じ、ですね」  大路さんだか大字さんか、とにかく王子だとは思わなかったらしいバイトの女の子は、メモに平仮名で『おおじ様』と書き、そのコミックをレジ内にある客注棚のあ行の場所へ差した。

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