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第7話

 2.  翌日、夕方になっても奏は売り場に姿を現さなかった。  ちらりと腕時計を確認すると午後六時を針は指している。昨日取り置きをお願いされたコミックの店頭分は早々に売り切れてしまい、やはり取り置きしておいて正解だったな、と由幸は奏の顔を思い出した。  今日も雑誌の入荷が大量にあり一時間早めに出勤していた。なので本来ならもう由幸は仕事を上がってもよい時間だ。  由幸がこの職場を選んだ理由のひとつに、社員であれども長時間の残業をしなくてよい環境であることだった。大学の同期たちが終電間際まで残業しているという話を聞くと、給料は安いがここに就職してよかったなとしみじみ思う。  そういうところが未だ学生気分が抜けきらない原因であるかもしれないけれど、やはり拘束時間は短ければ短いほうが絶対によい。  しかし今日はどうしても定時で帰宅するのがためらわれる。理由は言わずもがな、奏の来店が気になっていたからだった。  別に由幸がいなくても、レジで名前を告げれば取り置き商品は受け取れるようになっている。だけどなんとなく、なんとなくだけれど彼の喜ぶ顔をまた見たいようなそんな気持ちが由幸を売り場から離れがたくしていた。  午後七時になろうかという頃、スニーカーの底を鳴らして奏がやってきた。 「んっ、は──、向井さんっ……」  余程急いでやってきたのか奏の息は切れている。 「こんばんは」  本棚の下にあるストックの抽斗に補充分のコミックをしまっていた由幸は、奏の声を聞いて慌てて立ち上がった。  空気の動きに、微かに奏からポテトの匂いが漂った。 「あれ、バイトだった?」 「あ、はい。急にひとり休みになって、代わりに二時間でもいいから入れないかって」  くんくんと奏は自分の肩口を嗅いだ。 「バイトの後ってすげえファストフード臭くなるんですよね……」  年頃の男子高校生らしく、奏もやはり自分の体臭が気になるらしい。 「臭いっすよね」  眉尻を下げて照れる笑い顔も破壊力抜群だった。 「ううん、そんなことないよ」 「そっすか?」 「うん。おいしそうな匂い。食べたくなっちゃうな」  食欲を誘う匂いは全く不快に感じられない。 「え」  しかし奏は口を半開きにして由幸の顔を見つめている。何か変なことを言っただろうか、やはり人の匂いについてあれこれ言うのは失礼だったかと、由幸は微妙な空気にいたたまれなくなった。 「あの、レジに取り置きしてあるから……」  由幸は自分の失言をごまかすようにレジへと向かった。カウンターの内側に入り、背後の客注棚から奏の取り置きのコミックを抜く。 「カバーはおかけしますか?」  お決まりのセリフで問うと、奏は「結構です」と首を横に振った。  一番小さなレジ袋にコミックを入れ奏へと差し出す。 「この本、入荷分全部売り切れたよ」  そう告げる時、なぜかちょっと自分の手柄を報告する子供のような、そんな誇らしい気分になった。別に自分が描いた本でもなければ、取り置きだって当たり前に行っているサービスなのに。 「えっ! まじすか! やっぱ取り置きしてもらってよかったー」  喜ぶ奏の顔を見て、由幸も嬉しくなる。この仕事をやっていてよかったな、なんて大げさかもしれないけれど少し思う。 「いつでも取り置きしておくから遠慮なく言ってね」 「はい! ありがとうございます!」  ぺこりと頭を下げ立ち去る奏を見送って、由幸も今日の仕事を終了しようとスタッフオンリーの扉へ向かった。

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