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第23話

「ぷっ! アハハハハハハハ!!」  由幸は腹筋がよじれるかと思うほど大爆笑した。ガラスに映る奏もニヤニヤと笑っている。後ろからがつがつと腰をぶつけられ、あまりのバカバカしさにヒイヒイと笑いが止まらなくなってしまう。 「ほらっ! 向井さん、らめえ……、って言って」 「アハッ! あははっ! 何々? ら、めえ……?」  奏の指示通り、笑いすぎて苦しい息の中、そう囁いた。 「おおっ! めっちゃぽいです! 喘ぎすぎで苦しそうなのが、めっちゃそれっぽい」 「いやいや! 喘ぎすぎじゃなくて笑いすぎだから!」  バカみたい。ものすごくバカみたいに楽しい。こんなに爆笑したのはいつぶりだろう。そういや、高校生のころは毎日こんなふうにバカバカしいことばっかやって笑ってたっけ。  店であった嫌なことももやもやも、奏のおかげで全て吹っ飛んでいってしまう。奏といるとこんなにも楽しい。 「八千代くん、ありがとう」 「え?」 「俺さ、今日、すごく嫌な気分だったんだけど、君のおかげで元気でた」 「嫌なこと?」  心配げに揺れる奏の瞳に、由幸はつい胸の内を吐露してしまう。 「うん。ちょっと嫌なこと……。今日、お客さんに叱られて、俺、書店の仕事辞めちゃおうかな、なんて思ったりして……」  こんな子供に聞かせるような愚痴ではないと思いつつ、奏の前だとスルスルと胸のわだかまりが唇からほどけていく。普段なら自分の弱さを他人に見せるなんて絶対にしないのに。 「誘われるままにズルズル就職しちゃって。でも俺、他の社員さんみたいにいっぱい本読んでるわけじゃないし、パートさんのほうがよっぽど本に詳しくていつも助けてもらってて。なのに本当に本が好きで働いてるパートさんやアルバイト達よりお給料もらってるわけで……。ちょっとお客さんに叱られただけで嫌になっちゃうなんて、やっぱ書店の仕事向いてないのかもね」  急に静まった部屋の中、由幸の声だけが響いた。奏だって書店の客で、お客様の前でこんなことを打ち明けるのはだめだってわかっている。でも他の誰にも聞かせられない本心が、奏の前でだけ言葉になっていく。 「そんなことないです」 「ん。慰めてくれてありがとう」 「ほんっとにそんなことないと思います」  うつむきがちになってしまった顔を恐る恐る持ち上げた。真剣な奏の瞳が真正面から由幸を見据えていた。 「俺、向井さんが声をかけてくれた時、ものすごく嬉しかったです。本取っておいてくれてすごく嬉しかったです。その前から向井さんのこと、美人受けの書店員そのままだなって気になってて、いつも親切に接客してる向井さんのこと見てました。他のお客さん達も向井さんに親切に接客されてすごく感謝してるふうに見えました。」 「うん……。ありがとう」  一瞬BL用語が聞こえたような気はしたが、奏は一生懸命に由幸を励ましてくれている。じんわりと胸の中が暖かくなっていく。 「俺、向井さんがいるあの店に行きたいです。向井さんがいるあの本屋で買いたいです。俺、向井さんがいるあの売り場がすごく好きだ。欲しい漫画がちゃんと揃っていて、話題の作品やおすすめの漫画がびっしり平台に並んでて。それを見て回るだけでもすげえ楽しい。そんな売り場を向井さんが作ってる。だからできれば辞めないでほしい」  本屋なんてどこも同じだと思っていた。欲しい本があれば店で買うのもネットで買うのも同じ事だと。  書店は時間つぶしや帰宅途中など、ふらりと目的もなく立ちよる人の多い場所だ。書店で働く以前の由幸もそうだった。特に欲しい本があるわけでもなく、なんとなく入った書店の売り場で、こんな本があるんだとか、今こんな本が売れてるのかとか、平台を見て歩くだけでも楽しめた。  ネットでは得られない、カバーの手触りや実際の本の厚さ。平台に大量に積み上げられた最新作。最初の数ページを立ち読みし、店員が書いたらしきおすすめのポップを見てついレジへと足を向ける。書店とはそんな場所だったなあと由幸は改めて思う。  もう少し、あの売り場で頑張ってみよう。  ありがとう、と由幸が発しかけた声を遮って、先に奏が口を開いた。 「それに美人書店員受けって妄想の幅が広いっていうか。ニヒル店長×美人書店員、わんこ出版社営業×美人書店員、スパダリ年下大学生バイト攻めも美味しすぎるし、いつもやってくるあの人が実は売れっ子漫画家攻めとか、書店員受けってサイコーですよね」  こっそり滲み始めていた涙がすっと引っ込んでいく。 「ねえ、まさかその美人書店員受けって……」 「あはっ!」  純真無垢な笑顔の裏で、とんでもない妄想が繰り広げられている。  視界の端に小さく赤く灯る東京タワーが見えた。今夜はとても優しく輝いている。

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