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第36話

 まっすぐに背筋を伸ばして去って行く後ろ姿を見ていると、ギュッと胸が苦しくなる。 「由幸~。彼女がタクれっつうからタクシーで帰るわ~」 「あ、そう? じゃっ、お疲れ!」  ちょうどタクシー乗り場はすぐ目と鼻の先だった。その場に友人を残し、由幸は奏の後を追った。 「はっ……、はっ……、いない……」  奏が消えたと思われる方向へと走ったが、あの後ろ姿をみつけることはできなかった。 「はー……」  こんなに走ったのはいつ以来だろう。季節は秋なのに、顔は汗でビショビショだった。  仕方なく帰路につきマンションの部屋に入った瞬間、見計らったかのようにスマホの着信音が響いた。  ピロンという短いコールはメッセージが届いた時の音だ。 『ゆきちゃん、今ひとり?』 「ふっ……」  一人かそうでないか尋ねてくるなんて。きっと二人だと返信したら、奏の妄想メッセージが連続で送られてくるのだろう。そう思うとちょっと面白いような気もしたが、由幸は正直に『ひとり』と返した。 『浮気?』  速攻で返ってきたメッセージに唖然とする。  浮気って何が?  由幸に本命の彼女なんていないのは奏も知っているくせに。  すぐに『意味わかんない』と送ると、『さっき一緒にいた人!』と来た。 『大学の友達』 『友達の距離じゃないじゃん』 「いやいやいや、距離って……」  あの友達より奏との方が全然近いじゃないか。それより浮気という意味の方がひっかかり、何て返信したものか迷う。  ピロンとまた焦れたように、由幸の返信を待たずメッセージが送られてきた。 『ゆきちゃんは俺専用の受けだから。他の男とくっつかないで』 「は……、なに、それ……」  由幸は玄関先でしゃがみ込んだ。  ゆきちゃんだの俺専用だの、何なんだ。奏は冗談を言っているつもりなのだろうが、由幸の心は激しく乱れる。  こっちの気持ちも知らないで、かき乱すだけかき乱して。そんな気もないくせに。 「八千代くんの、バカヤロウ……」  腹が立つ。悔しくて虚しくて、でも爪の先ほどの期待をしてしまう自分に。 『ばーか。浮気とか言うな。俺は奏くん専用だよ』  奏の冗談に乗っかったふりをして、由幸はメッセージを返した。  この返信に、少しでも動揺すればいい。その気がないなら無垢にからかうのはやめてくれ。 「八千代くん……。俺の地雷、踏みまくりだから……」  もう奏からの返事を待つ気力はなくて、由幸はスマートフォンの電源を落とした。  明かりをつける余裕などなく、飲み込まれそうな暗闇に包まれて、由幸はしばらくそこから動けなかった。

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