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第39話
8.
仕事の合間に何度もスマートフォンをチェックするのが日課になりつつある。奏に幾度となく謝罪のメッセージを送っているが、返事どころか既読すらつかない。
本日何十回目かのため息をついた時、ポンと肩を叩かれた。
「向井さん! おはよーございます!」
「ああ……。上野さんかあ。おはよう」
どよんと暗さを隠しきれない由幸とは対照的に、上野は見るからに上機嫌だった。
「今日ついに発売日ですねー! 久々の特典付き!」
「あー……、だからご機嫌なんだ」
今日はBLの新刊発売日。雑誌の束の中から目当ての束を選り分けて梱包をとく。
「ひえ~~! 朝から働いてる私への神からのご褒美だあ~」
瞳を煌めかせながら、上野は従業員用の取り置き棚へ一冊コミックを差した。
由幸は手にしているコミックをじっと見つめた。これは奏が好きな作家の新刊だ。
「上野さんはさあ、八千代くんと連絡取ってる?」
「はい? 八千代くんですか?」
「んー……」
上野はシュリンクをかける手を休め、不思議そうに由幸を見ている。その視線に気がつかないふりをしながら、由幸は次々と梱包をといた。
「向井さん、八千代くんとケンカしたでしょう?」
ズバリと指摘された瞬間、由幸の手元が狂った。
「いっ……たあ……!」
カッターの刃先が指先を掠め、赤い血が玉となってこぼれた。
「やだっ! 絆創膏!」
上野はエプロンのポケットから絆創膏を取り出し傷口に巻いてくれた。
「ごめんね」
「いえ。このバイトしてると指切るの日常茶飯事ですからね~」
本のカバーや雑誌の表紙など、薄くて丈夫な紙は鋭利な刃物のように肌を切る。切られた瞬間はいつも、やってしまったと思うのだ。
絆創膏に滲む赤い染みに目を奪われていると、上野の視線を感じた。見ると、上野はニヤニヤと奏がよくやるにやけ顔だった。
「今のはうっかりミスとはちょっと違いましたね~」
「え?」
「いや~。八千代くんと早く仲直りしたほうがいいですよ~? じゃないと向井さんの手、傷だらけになっちゃいそう」
鋭い腐女子の観察眼におそれいる。
「そんなんじゃないけど……」
言葉を濁し、由幸は新刊を一冊手に取った。
奏の好きな同級生もの、特典ペーパーつき。
「ねえ、八千代くん、来るかな」
「さあ~。向井さんにわからないのに私にわかるはずがないじゃないですか。ていうか、なんでケンカしちゃったんですか?」
興味津々な上野を無視し、由幸はそのコミックを取り置きした。来るかどうかわからないけれど、奏のために。
いつもBLコミックの発売日にやってくる奏は、いつまで待っても現れなかった。あの日からこの売り場で奏の姿を見かけていない。由幸がいる限り、もう二度と来るつもりはないのかもしれない。
帰り際、取り置きしておいたコミックを買い上げ、奏のバイト先へと向かった。
「いらっしゃいませー!」
今夜も判を押したように無料の笑顔が出迎えてくれる。キッチンの奥を覗いたけれど見える範囲に奏の姿はなく、由幸は適当なセットを注文し持ち帰った。
部屋のソファーで冷めたポテトをつまむ。ゴムのようにグニグニと硬くてちっとも美味しいとは思えない。
でも奏とここで冷めたポテトを食べた時は同じように硬くても美味しかった。奏がいれば何だって美味しくて、何をしたって楽しかった。
気がつけば幾筋もの涙が頬を濡らしている。
「ふっ……、ううっ……」
この歳になって片想いで泣くなんて。いい大人が高校生に翻弄されて泣くなんて、バカじゃないだろうか。
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