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第56話
「気をつけたほうがいいですよ~。そのうち家バレしちゃって、向井さんちの前で待ってたりして……」
「怖い事言わないでよ……」
由幸の部屋の前で突っ立っているあの子を想像してぞっとした。変な子だけど、顔はなかなかの美少女だからまるでホラーだ。上野はおかしそうに笑って仕事に戻っていく。
色んなお客さんがいるものだな、と由幸は首を傾げるだけだった。
今日は閉店までのシフトだ。仕事を終えた由幸は、奏と遅めの夕食を食べに駅前のそば屋に入った。
「八千代くん、ほんとに蕎麦で足りる?」
十八歳の胃袋が蕎麦で満足できるだろうか。由幸は夕方の休憩時間に軽くコンビニのおにぎりを食べてしまったので、蕎麦くらいがちょうど良いのだけれど。
「肉とかの方がいいんじゃない?」
「俺、学校の帰りに友達とハンバーガー食べてきたから大丈夫」
きっと由幸のシフトを考え合わせてくれたのだろう。こういうところは彼氏として百点満点だなあと思う。
翌日にもたれないよう由幸は山菜蕎麦を注文したが、奏は海老かき揚げ蕎麦と炊き込みご飯のセットを頼んだ。こんな時間に揚げ物をいけるところはやっぱり若いと感じる。たった五歳の差だけれどふとしたところで実感するのだった。
「あのさあ、今日、お母さんが来たんだけど」
「向井さんの?」
「違うよ。八千代くんの」
奏は蕎麦をすする手を休め、「ああ、やっぱり」と言った。
「やっぱり?」
「はい。結構前に言っちゃいましたからね。向井さんのこと」
「そうなのっ!? 早く言ってよ!」
やっぱり奏の母親は、息子の恋人を見にやってきたのだ。もっと早く教えてくれれば少しは心構えができたのに。今日の自分はどうだっただろう。みっともなく慌てていたような気がする。
「ねえ……、お母さん、反対してた?」
器には半分以上蕎麦が残っているが、これ以上喉を通る気がしない。由幸はそっと割り箸を置いた。
「反対も何も……。やっぱりね、って言ってましたけど」
「やっぱりって?」
「はい。どうももっと前から疑ってたみたいです。俺が男しか好きになれないんじゃないかって」
「え! そうなの……?」
「まさか。男を好きになったのは向井さんが初めてですよ」
BLコミックでテッパンのセリフだったが、現実に目の前で言われるときゅんとくる。こんな簡単な言葉でときめくとは我ながらかなりチョロいと思った。
「でもうちの母親、どうも俺のことそっちだって疑ってたらしくて」
奏は苦笑いを浮かべた。
「なんで?」
「はあ、それが……。俺の部屋の本棚にBLが増えていくのを心配してたみたいなんです。買い始めた頃はほら、普通の漫画の合間に混ぜてたんでそんな目立たなかったんですけど、数が増えていくうちにさすがに親も気がついたみたいで」
なかなかに露骨なタイトルもあるし、背表紙にイラストがデザインされたものもある。それに奏の購買数を思うと絶対に隠しきれるものではないだろう。
「母親は俺が自分の性に悩んでるって思ってたらしいです。元カノに関してはカモフラージュのためにつきあってたと思ってたとまで言われちゃって。でもひとつだけいいことがありました」
「何?」
「彼氏ができておめでとう、って言ってもらえました……」
奏の顔には何ともいえない気持ちが表れていた。そりゃそうだろう。由幸とつきあってはいるものの、一応は異性愛者なのだ。まさか親が勘違いしてあれこれ心配されていたなんて、微妙も微妙!何ともいえない気持ちだろう。
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