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第68話
「俺、向井さんが初めてになるから、きっと上手く出来ない。向井さんみたいに優しく抱くとか、きっと無理だと思うんだ」
はあ……、と奏は溜息を吐いた。由幸は恐る恐る尋ねてみる。
「ねえ、俺みたいに優しく抱くって何?」
奏は瞳をぱちくりと瞬かせた。
「えっ、まさかそれも覚えてない?」
由幸は頷くしかなかった。
「向井さんねえ、俺に抱き方レクチャーしてくれたんだよ?」
なんつうことを!! まさか奏に抱き方を教えていたなんて! 酔っぱらい怖い!
由幸は小さく「ごめん」と謝った。
これが童貞の友達にというのなら話は分かるが、相手は大好きな恋人だ。しかも自分は抱かれる方だ。
何をどうレクチャーしたのかはわからないが、その言葉が奏から自信をすっかり奪ってしまっているようだった。
「ご、ごめん。ほんとごめん……」
知らなかった自分の一面。由幸は心の中で禁酒を誓った。
落ち込む由幸の頬をするりと奏の手のひらが撫でた。
「向井さん」
「はい……」
奏の手のひらは由幸の頬をくすぐり、顎をくいっと持ち上げた。真正面から瞳の奥をのぞき込まれる。
「俺が自信持てるまでもう少し……、待ってくれますか?」
奏の美しい唇から言葉が溢れる。由幸はこくりと頷いた。
にこっ、と奏の顔が緩むのを確認して、由幸はほっと安堵の息を吐いた。
「俺、きっといい男になります」
今だって奏はとてもいい男だ。これ以上由幸の心を夢中にさせてどうするつもりなのか。
「俺、絶対に向井さんに中イキさせれるくらいになりますから」
「へっ……?」
何か不穏な言葉が、奏の美しい唇から飛び出した、ような。由幸は自分の耳を疑った。
「向井さんにあんあんひいひい言わせて、もうらめって言わせるくらいいい男になりますから」
聞き間違いではなかった。由幸は仏のような表情でそれを聞き流そうとした。
「その時は向井さん……、お口でごっくんしてください。あと顔にぶっかけられてアヘ顔ダブルピースしてください」
おいおいおい。まじか、それ。ついさっきまでの弱気な奏はどこかへ行ってしまった。
にこにこと「今日はいいお天気ですね」と挨拶を交わすような軽い口調で、奏はどこから仕入れたのか、きっとBLコミックからなのだろうが、どんどんと不穏な事を口にする。
「八千代くん……」
「はい」
閉じることのない奏の唇に、由幸はそっと人差し指を寄せた。
「そういうのは……、童貞捨ててから言って下さい」
由幸がキッと睨みつけると、奏はパチパチと瞬きを繰り返す。何を思ったのか奏はきゅっと由幸の手を握り、熱い視線をぶつけてきた。
「向井さん、俺のハジメテ、向井さんに捧げますから」
奏のハジメテ。
言葉の意味を理解すると、ずくんと由幸の胸が大きく打った。
「八千代くん、重いよ」
照れ隠しについそんな事が口から飛び出す。奏はうっ、と言葉を詰まらせ、うるっと瞳を潤ませた。
「重いですか?」
「うん。重い」
しなしなと奏から元気が抜け出て行くのが手に取る様に分かった。由幸はごくりと生唾を飲んで唇を開いた。
「でも八千代くんのハジメテ、俺以外がもらうのは絶対許さないから……!」
吐息がかかる距離でそう告げる。間近に見える奏の瞳は近すぎて輪郭がぼやけて見える。
しかし、その瞳にきらりと光るものが再び宿った。
「由幸さん、好きです」
瞳を見つめ合いながら愛を囁かれた。今なら奏の言葉全てを信じられる、と思った。
「奏くん……、俺は君を愛してるから」
だから待つよ。君が勇気を出せる時まで。
「む、向井さあ、ん……」
へなへなと奏は腰が抜けたようにその場に蹲った。
「えっ、八千代くん……?」
奏は両手で口元を隠し、由幸を見上げている。
「まじやばいです! イケメンの本気! すげえ……。やっぱ敵わないです。てか、すごい好きです。ちょっと抱かれてもいい、って思っちゃうくらい。でも、でもでも! 抱くのは俺っすから! まじ、これは譲れないです!」
奏は由幸のイケメンパワーにすっかりやられてしまったようだ。これはまだまだ清いお付き合いが続きそうだ……。
「ほらっ! 八千代くん、ハンバーグ作ろ!」
すっかり夕飯時になってしまった。由幸は奏の手を引き立ち上がらせた。
「はい……。俺、ハート型のハンバーグ作るんで向井さん、美味しく食べて下さいね」
「ふふっ。八千代くん、女子力高いね」
「あっ、やべ。俺のこと、抱いちゃだめっすからね……!」
二人仲良くキッチンに立ち、由幸は奏の横顔を見つめた。
「八千代くん……」
「はい」
「いつか俺のことも、美味しく食べてね」
由幸がにこっと微笑んで言うと、奏は再び腰が抜けたようによろめいたのだった。
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