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第76話
正確には少し前、脱衣所でほんの少しだけ進展はあったものの、奏の鼻血事件でそれはもう笑い話にしかならない。
「ふうん。向井さんかわいそー」
美歌は、いつも由幸が奏に向けるような生温い目を由幸に向け、全然可哀想ではなさそうに呟いた。そして何かうんうんと納得するように頷いている。
「お兄ちゃんさあ、やっぱ男の人なんか好きじゃないんだよ」
「は?」
「は?」
奏と由幸の声が見事にハモった。
「だってやりたい盛りの男子が、半年も恋人に手出さないんだよ? ありえないじゃん? ほんとに好きならやっちゃうでしょ? あのベッドで」
美歌はそう言って、仕切りの奥のベッドを指さした。ドヤ顔でそう言い放った美歌に、由幸たちはまさか「奏が童貞でひよっちゃってやってません」なんて言えるはずもない。
「というわけなので、早くお兄ちゃんは目を覚ました方がいいよ。だってお兄ちゃん、女の子とちゃんとつきあえるんだもん」
ねっ?と、美歌は可愛らしく笑った。
「なんか…妹が、まじですいませんでした」
美歌を無理やり部屋から追い出した後、奏は申し訳なさそうに由幸へ謝ってきた。
「いや別に。ていうか美歌ちゃん、八千代くんのことすごく好きなんだね。」
美歌はなかなかぶっ飛んだ思考の持ち主だったが、それでもやっぱり兄のことを心配している気持ちが、由幸にはちゃんと伝わってきた。
「あいつ、昔からすげえブラコンで……」
ぽりぽりと首筋を掻きながら、奏は苦笑いを漏らす。
「ブラコンか。あはっ。確かに!」
兄の恋人がどんな人間か知りたいがためにあんな行動を取っていたのかと思うと、妹ってやっぱり可愛いなあ、と由幸は思う。
「それにあいつ、今、彼氏いなくて暇なんすよ」
奏は拗ねたように唇を尖らせた。
「え? もしかして八千代くん、美歌ちゃんに彼氏出来るの反対?」
「はっ? いや……そうじゃなくて。なんか俺、向井さんとハジメテをまだ出来てないのに、あいつに先越されるの悔しいなあ…、って」
奏は期待を孕んだ瞳で由幸の顔を覗き込んできた。
「……する?」
熱っぽいその視線に、由幸の体が火照ってくる。
「……じゃあ、この間の続き、してもいいですか?」
恥ずかしそうに言う奏を、由幸はベッドへと誘った。
「八千代くん、ハジメテって言うけど、俺だって男にされるのは初めてなんだから、ね?」
奏が由幸に対して引け目を感じないように、そう諭す。
「は、はいっ! それは、もう、ちゃんと分かってます、から……」
本当にわかっているのだろうか。相変わらず焦りを隠せていない奏。由幸は苦笑いをこぼした。
「八千代くんはさ、キス、好きだよね?」
「はい」
「キスするのは、全然平気なんでしょう?」
「だってキスは赤ちゃんにもするじゃないですか。可愛いなー、って思ったら、チュッ、ってしたくなりません?」
奏のキスは親愛のキスと同じだったらしい。だからあんなに気軽に、チュッチュッと由幸の唇を啄んできていたのか。
「八千代くん」
「はい」
「大人のキス、しよう」
由幸は首を傾けて、奏の唇に自分の唇を触れさせた。唇を押し当てて、奏の唇に隙間を作る。そこへゆっくりと舌を這わせていった。
奏の舌もゆっくりと、由幸の舌を迎えるように動き出す。ぬめる唾液を絡ませて、お互いの舌は生き物のように蠢きあった。
「ん、ふっ……」
キスの合間に由幸の唇から吐息が漏れる。それを聞く奏の息も荒い。
「ん……。八千代くん、息、出来ない」
熱烈なキスは呼吸するのを忘れさせるほどで、由幸は奏の胸を押し唇を離した。
「由幸さん、こういう時は……名前で呼んでください」
奏はキスで湿った唇を舌で舐めた。その舌がとても赤く艶めかしい。
「奏、くん」
「くんはいらない」
「奏……」
そう呼ぶと、奏はぎゅっときつく由幸を抱きしめた。
「はぁっ……! 好きっ!」
奏は由幸の鎖骨に顔を埋め、感極まったように小さく叫んだ。
「ん、ふふっ……。俺も。好きだよ、奏……」
普段は言い慣れない『奏』という呼び方。それを口にする度、何だかくすぐったく感じる。
「かなで」
由幸はもう一度、確かめるように口にした。
「由幸さん」
うっとりとした瞳が由幸を見つめていた。
「ゆきちゃん、って呼ばないんだ?」
律儀に『由幸さん』と呼ぶ奏をからかった。
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