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第86話
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奏の十九歳の誕生日。朝目覚めてからずっと、由幸はそわそわと落ち着かなかった。午前中に部屋の掃除をし、午後から奏をバイト先まで迎え行くつもりだ。
早く奏に会いたい気持ちが、なんだか胸をくすぐったくさせる。逸る気持ちをごまかすために一生懸命掃除機をかけた。
棚のほこりを使い捨てのモップで取っていると、インターホンが鳴った。もしかして奏のバイトが早く終わったのだろうか。
由幸は急いでモニターまで駆けよった。
「あれ?」
映っているのは制服姿の美歌だ。そういえば世間は夏休み目前。ちょうど終業式が行われる学校も多そうだ。
でもなんでわざわざ美歌がマンションに訪ねてきたのだろう。しかもこんな日に。
由幸は首を傾げながら、オートロックを解錠した。
「お兄ちゃんに言ったでしょう」
部屋へ上げるなり開口一番、美歌はむっつりと言った。
「あ……、ごめん……」
妹の恋愛には興味のなさそうな奏だったけど、どうやら忠告だけはしてくれたようだった。
「でも、美歌ちゃんのこと、心配だったんだ…」
由幸がいれた冷たい麦茶に手を付けることもなく、テーブルを挟んで向かい合った。気まずい。
この部屋で、ご機嫌ナナメの八千代妹と顔をつきあわせる時間が気まずい。どうにもいたたまれない気分になってくる。
「既読スルーされてるんだけど」
長い沈黙の末、美歌の方から口火がきられた。よく見ると、美歌の目元はうっすら赤く腫れている。
泣いたんだな、と由幸はやっと気がついた。
「ミサキって誰? って送ったのに、既読スルーとか……。何なの、まじで……」
文句を垂れる声音が、ひどく疲れを滲ませている。
「会ってないんだ? 彼と」
「うん……。もともと試験期間だったから今週は会わない約束だったんだけど」
それ以降は会話が続かず、由幸は再びうつむいた。
「私、やっぱり本人に確かめないと信じられない!!」
突然、再びの沈黙を破り、美歌が大声をあげた。
「え?」
「向井さん、付き合って!」
「えっ!?」
「ケイイチくんの学校で待ち伏せするから! 向井さんついてきて!」
「ええっ!?」
猪突猛進する美歌を一人で行かせるわけにもいかず、由幸は慌てて後を追いかけた。電車を乗り継ぎ到着してみれば、時間はまだ正午前。
ケイイチの学校はちょうど下校時刻のようだった。わらわらと校門から出てくる大勢の生徒達。たくさんの同じ制服の中からケイイチを見つけるのは至難の業と思える。
「美歌ちゃん……。もしかしたらもう帰っちゃったんじゃない?」
校門脇で美歌は、ケイイチが出てくるのを今か今かと待ち伏せている。女子校の制服姿の美歌と、明らかに高校生ではない由幸は注目の的となっていた。
ジロジロと遠慮のない視線にさらされて、どうにも肩身が狭い。校門から下校してくる生徒は全て男子だった。どうやらこの学校は男子校のようだ。
門柱に背を預け、ぼんやり男子の群れを眺めていると、書店でケイイチと立ち話をしていた男子生徒が美歌の前で立ち止まった。
「八千代?」
「あ、澤部くん。久しぶり……」
美歌は明らかに気まずそうな顔をして澤部を見た。
「八千代、ケイイチのこと待ってる?」
澤部も、美歌以上に気まずさが声音にはっきりと現れていた。それもそうだろう。ケイイチが二股をしているのを知っているのだから。
二股相手の美歌が、こんなところで、しかも年上の男を連れて待ち伏せしていたら、絶対すぐにただ事ではないと察知するに違いない。澤部の表情は浮かなかった。
「ケイイチは委員会に行ってるからしばらく来ないよ」
「澤部くんさ……、ミサキって女の子、知ってる?」
澤部の表情が一変した。言葉で何も言わなくても、明らかに知っていると伝わってくる。
「ミサキは……」
澤部が美歌を傷つけない言葉を選んでいるように、由幸には見えた。
「知ってるんだ。その子と私、どっちが本命だった?」
「……わかんね」
重苦しい沈黙が流れる。
大半の生徒は下校していき、人気の少なくなった校門前で、三人は無言のままケイイチを待った。
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