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第90話

 帰ろうとする澤部の腕に、雄太郎は自分の腕を絡め引き留めた。 「先輩、ラインのID交換しよや! てか美歌の兄ちゃんも向井さんも!」  ポケットからスマートフォンを取りだし雄太郎はアプリを起動させた。 「俺な、夏休みは先輩と遊ぶつもりやったから。でもそれももう無理やしな。なあ、美歌の兄ちゃん。向井さんも、俺と遊ぼうや~」 「え、俺、仕事…」 「休みの時でいいから……。なあ~、お願い~……?」  こてっと小首を傾げて懇願する雄太郎は、それはそれは可愛らしかった。奏はまた、リアルBL男子のあざとさに打ち震えている。 「それじゃあ……」 由幸がスマホを手にすると、美歌がさっと由幸をかばうように前に出た。 「美歌は!? あんた、男とだけ交換するってどうなの!? 下心見え見えなんですけど!?」 「え~、美歌もかあ。まあしゃあないなあ……。ほら、交換したるわ」  さっきの可愛いお願いの表情とはうって変わり、雄太郎は下唇を突き出したものすごく嫌そうな顔で、美歌にスマホを向けた。 「なに! その顔! ほんっと可愛くないんだから!!」  怒りながらも、美歌は雄太郎とIDを交換している。これが噂のツンデレというやつだろうか。 「澤部先輩が帰るなら俺もか~えろ。ね、先輩。駅まで送ってくれるやろ?」 「あ、うん。いいけど」 「じゃあ美歌も行く! あんた、もう澤部くんのこと、狙ってるんでしょ!!」  大騒ぎしながら、高校生組はまるで嵐のように退散していった。せっかくの奏の誕生日だったのに、とんだハプニングで予定はめちゃくちゃになってしまった。  新しい友人、というか、由幸からしたら少し手のかかる妹、弟といった感じだったが、雄太郎や澤部たちとの出会いはそれなりに楽しかった。  しかしそれは何の予定もない普通の日なら大歓迎のことだけど、奏の誕生日は一年でたった一日。奏だって今日を楽しみにしていた。ぐだぐだに夕方なってしまったことを由幸は申し訳なく思った。  本当なら初めてのバースデープレゼントを贈り、今日のプランを相談している頃だろう。 「奏くん、ごめんね」  由幸は奏の髪をそっと撫でた。指の間をするりと抜ける奏の髪。それはいつまで触り続けたって飽きることのない感触だ。 「ううん。もとはといえば美歌が悪いんだし」  謝るつもりが逆に謝られた。奏の笑顔が何となく由幸を気遣っている様に感じる。確かに大変な一日だった。 「プレゼントはまた明日にでも贈らせて?」  物や形にこだわるなんて今まではなかった。記念日だってその時期つきあっていた彼女が積極的に行いたがるのに、由幸はただ流されるように従うだけ。  しかし奏には自分から何でもしてあげたい。今日のこの日をスペシャルなものとして捧げたかった。 「そうだ! ケーキ!」  帰りに駅のケーキ屋でホールのケーキを買ってあった。由幸は冷蔵庫から箱を取りだしテーブルに置いた。  蓋を開き、中身を取り出す。季節感など完全に無視したような、ぴかぴかに光る苺でぎっしり埋め尽くされたタルトだ。  この苺のタルトはいつもその店のケースに置かれている。  春先の苺フェアの時期はもちろん、夏でも秋でも冬でも、一年中店の冷蔵ケースの中にある。ピカピカのゼラチンだかジュレだか由幸には分からないが、透明なコーティングを纏わせ、看板娘のように置かれていた。  たまに歴代の彼女たちとその店にケーキを買いにいくことがあった。こんなに真っ赤でピカピカの存在感を放っているというのに、彼女達はそれを無視するかのように季節限定のものばかりを選んだ。  みんな「きれいね」と、光るタルトにそう言う。でもやはり一年中そこに置かれているためレア感は薄く、どうせなら期間限定のものを、と結局苺のタルトは今まで誰ひとり選ぶことはなかった。  ───こんなに綺麗なのにな。  いつも由幸は思っていたが、ケーキの選択権は女の子に譲っていたので一度も口にしたことがない。そのまま何年も過ぎてしまった。

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