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第91話

 今日ついに自分が選ぶ番になった。店頭で由幸は迷わず苺のタルトを指差した。 「あっ、それ、お兄ちゃんの一番好きなケーキだよ」  美歌が嬉しそうにそう言った。奏も自分と同じケーキを好きだと聞き、思わず頬が綻んだ。  たくさん並ぶケーキの中で、奏もこの真っ赤なタルトを選んでいた。たったそれだけの事実が、由幸の心をほっこりと和ませる。  店員が取り出した苺のタルトは、まるでルビーの詰まった宝石箱のように見えたのだった。  光る苺が反射したかのように、奏の瞳がきらめく。 「俺、これ、一番好きなんです」 「うん、よかった」  ナイフを取ろうとした由幸を、奏は素早く止めた。 「贅沢食いしてもいいですか?」  奏はフォークを手にすると、ケーキのど真ん中で光る苺にぷすりと刺した。そしてそれを口に放り込むと、もぐもぐと食べた。 「甘い」  由幸に笑顔が向けられる。そんなにおいしいのかと由幸もフォークを取った。  しかしそれは奏の手によって取り上げられる。奏は迷わずぷすりと苺に刺すと、自分の唇に苺を挟んだ。そのまま由幸へ顔が傾けられる。  光る苺。  由幸は明かりに引き寄せられる虫のように、そこへ向かって唇を寄せた。  二人の唇の間で苺がつぶれる。じゅわっと果汁が顎に垂れた。  とても甘い。  口内の体温でぐじゅぐじゅに蕩けていく。由幸はそのまま奏と舌を絡めた。  口いっぱいに苺の香りが立ちこめ、鼻へと抜ける。甘い果実は、二人の口内ですぐに形を成さなくなった。 「ゆきちゃんを先に食べる……」  耳朶まで赤く染めながら、奏は由幸を追いつめた。 「あ……」  由幸が戸惑いを見せると、ぐいと腕を引かれ、ベッドまで連れて行かれる。あっという間にベッドの上に押し倒された。  あまりの急展開に、由幸は呆然と奏を見た。  夏の夕方はまだ明るかった。しかし遠くの空には雨雲がやってきている。窓から青空とどんよりと黒い雲の境目がはっきり見えた。 由幸は、ああ雨が来るんだな、と上の空で思った。目の前の現実に思考が全然追いついていなかった。  急にチリッとした痛みを肩に感じ、慌てて奏と向き合った。 「俺だけ見てて……」  肩口にきつく吸いつきながら奏が由幸を見上げている。 「あ、うん……。うん……!」  奏の瞳の中に、自分が置かれている状況をはっきり理解した。  これから、自分たちはついにするんだ。  今までなんだかんだと不発に終わっていたけれど、今日は本当に最後までするんだ。  そういう流れになるだろうと覚悟は以前からしていた。でも完全に受け身になっている今、少し怖い。  テンション高めに奏を誘惑していたときには感じなかった不安が全身を支配していく。それくらいに、今、奏の本気を感じる。  ──食べられる  比喩ではなく、由幸は本気で思った。奏の目が、手が、唇が、由幸を捕食しようと必死だった。由幸はただされるがままで動けない。 「ゆきちゃん……?」  奏の優しい声に、ハッとした。いつもの奏の声。かけられた声に、体の緊張が緩く解けていった。 「あ、奏くん……」  ようよう奏の体へ腕を回すことができた。 「大丈夫ですか?何かいつもと違う、っていうか……」  心配そうに見つめる瞳。それはいつもの奏の瞳だ。 「奏くん……!」 「あ、はいっ」 「奏くん……、俺、ちょっとビビったみたい」  自分でも情けないくらいに眉尻が下がっているのを感じた。

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