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第8話

 水に濡れた顔を洗面所の鏡に映せば、泣きそうな表情をした自分がいる。 「やだな。こんな顔で出迎えちゃお兄ちゃんを心配させちゃうよね」  とりあえず嫌なことは胸の奥に押し込んで、仕事で疲れて帰って来る兄のために夕飯の買い物に出かけようと気を取り直した知矢の耳に、スマホの着信音が聞こえてきた。  知矢がリビングへ戻り、鞄の中からスマホを取り出すと電話は母親からだった。 「……はい。もしもし」 『ああ、知くん? 今大丈夫?』 「うん。平気……」 『それでどうなの? 知くん』 「どうって? なにが?」  いきなり、どうなのって聞かれてもなんのことだか分からない。 『だからー、あなたも典夫もちゃんとご飯食べてるの? お掃除とか洗濯も溜めてないでしょうね?』 「ちゃんとしてるよ。……そんなことが聞きたくてわざわざ電話なんかしてきたの? お母さん」 『そんなこと、じゃないわよ。大切なことでしょう?』 「だからちゃんとしてるって。ご飯もきちんと食べてるし。掃除も洗濯も溜めたりなんかしてないよ」 『ほんとかしら?』 「ほんとだよ。嘘だと思うならお兄ちゃんにも聞いてみたらいいよ」  母親の疑心に満ちた声音にムッとして知矢が言い返すと、母親は溜息を落とす。 『相変わらず、お兄ちゃんお兄ちゃんね、あなたは』  そして知矢の胸を凍らせるような言葉を続けて放った。 『……知くん、あなたやっぱりこっちのおうちの方へ戻って来た方がいいんじゃないの? 典夫のためにも』 「……っ……どういう意味だよ?」 『典夫はもう立派な社会人なの。あなたがお兄ちゃん子なのは知ってるけど、そろそろ兄離れしなさい。お兄ちゃんに彼女ができたらどのみちあなたはそこにはいられないんだから』  母親の指摘は知矢の心の真ん中に突き刺さってえぐるような傷をつける。兄と女性のツーショットを見て不安定になっていた気持ちが再燃してしまう。  兄を信じる気持ちが、波のように押し寄せて来る不安で流されてしまいそうになる。  これ以上傷つきたくなくて、知矢はまだなにかを話している母親の言葉を無視して通話を終え、スマホの電源を切った。  そのままカーペットにへたり込む。       思考がどんどんマイナスの方へと傾いていき、グラグラとめまいがした。  ……僕はお兄ちゃんの傍にいたらいけない存在なのかな?  その答えは悲しいけどYESだろう。  世間一般からすれば母親の言うことが人としての道で、知矢と典夫の二人の関係は異常そのものなのだから。  でも。それでも好きなのに、僕は。お兄ちゃん以外誰も好きになれない。  知矢はまだ新しいカーペットをそっと手で撫でた。  ……このカーペットもソファセットもカーテンもベッドも、今住んでいる部屋のたくさんの家具やインテリアはお兄ちゃんと二人で選んだものなのに。  このマンションの部屋そのものだって二人で何軒もの不動産屋を回り、決めたものだ。  兄と二人であーだこーだと言いながらする買い物や部屋探しは本当に楽しくて心が浮き立つものだったし、二人きりで始まった新生活は幸せそのもので。  なのに今、知矢の心には謎の女の存在と母親の言葉だけがでしゃばり、幸福感を曇らせてしまっていた。

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