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第2話

――俺の手に落ちろ』  差し伸べられた大きな手を振り払えず、生茂(いくも)は縋りついたままだった。 「これじゃ、ダメだよなぁ」  ため息をつきつつも、手は止めずにキャベツの千切りを作っていく。  鍋の中のスープはもうすぐできる。白米も土鍋に炊けている。煮物とお浸しは今朝の残りであるが少しアレンジしたし、コロッケは衣をつけてあるので家主が帰宅したら揚げるだけだ。  チラリと生茂の視界に入るは、カラフルな花束。すぐに枯れてしまうかと危惧したが、予想以上に長持ちしている。不本意ながら受け取ったブーケは最終的に誰かに譲ろうとしていたのだが、思わぬやり取りによってソレすらも忘れて結局持ち帰ってしまった。  まるで見透かされているようだ。  すべてを捨てようとした自分を。まだ、つなぎ止められている。 「なにがダメなんだ?」 「っう、わっ!?」 「と、そそっかしいな。美味そうじゃないか」  まさか返答があるとは思わず、飛び上がって危うく取り落としそうになった刃物を後ろから救出される。 「……お、おかえりなさい、アオさん」  驚きで一瞬止まりそうになった胸元を押さえ、家主を振り返ろうとして叶わなかった。密着した背部から男の熱を伝えられる。 「ただいま。お前にこんな事をしてもらうために連れてきたんじゃないぞ。正直助かってはいるが」 「他にできること、ありませんから」  長年片想いをしていた親友の結婚を契機に、仕事を辞め住居を引き払って遠方へ転居しようとした。そんな自分に居場所を与えてくれている青嵐。  一介のサラリーマンだった生茂に社長業の手伝いができるはずもなく、残すは家事しか思いつかなかった。幸い、親友を交えてのやり取りで、青嵐が生茂の手料理に対して嫌悪がないのを知った上での申し出だった。 「イク」 「はい?」  動きがとれないので身体はまな板に、視線と意識を背後に向ける。  輪郭を確かめるようにして、頬を撫でる指。続けられるだろう言葉がなく、沈黙に生茂は困惑した。 「アオさん?」  ピンポーン。 「……なんでもない」  来客を出迎えるために離れていく人肌に、少しの緊張と名残惜しさをない交ぜにした、ちいさな吐息がもれる。  自分はたぶん、弱っているのだ。  それを知っているやさしい彼は、手を差し伸べてくれている。元々、弟の友人にまで声をかけてくれる面倒見のいい人だ。  気を取り直して、生茂は適温になった油の中にコロッケを投入した。  小気味よい音を立てながら、ゆっくりと沈んでいく。徐々に色づき火が通った頃になって、青嵐が来客を出迎えに行ったきりだったのにようやく気づいた。  もう少し後の方がよかっただろうか。  揚げたてを食べてもらうつもりだったが、これでは冷めてしまう。困った。 「イクッ?! なんで兄貴のトコに居るんだよ!!」  皿片手に唸っていれば、激しい足音と共に何者かが突進してくる。 「……ノブ? どうしてここに……?」  勢い込んできた野分(のわき)に目を丸くして、そうして振り返ったカレンダーに納得した。  彼らが挙式して丁度一週間。新婚旅行から戻ってきたのだ。  若干日に焼けた親友を見上げて微笑む。今まで毎日のように会っていたので、まるで数年ぶりかのような錯覚を覚える。 「向こうはどうだった?」 「良かったよ、よかったけどッ! ――った!」 「落ち着きなさい、野分」  姉(あね)さん女房のキレイに彩られた指先が、親友の耳を思いっきり引っ張る。 「おかえりなさい、飛鳥(あすか)さん」 「ただいま、生茂くん」  魅惑的に口角を上げた彼女の腹部は、以前より成長を遂げているように見える。たった一週間でまさかと否定しつつも、すくすくと育つ子に生茂は頬を緩める。 「お腹こんなに大きくなるの? すごいね」 「これからよ」 「っえ、まだ? 破裂しない?」  恐る恐る伺う生茂に、親友の妻は声を上げて笑う。 「触ってみる?」 「っえ?」 「ときどき蹴るわよ」  半ば強制的に引かれた手は、彼女の腹部へ。時折微かに伝わる振動に生茂は目を見開いた。  動いている。  生きている。  ちいさいながらに、母に宿る生命。  大切な、たいせつな命。  野分と飛鳥の子。 「すごい、ね……」 「イク」  感動して固まった己を、剥がすかのような強い力。 「あら、いらしたの? お義兄さま?」  さも、たった今気づいたかのように驚いた声を上げた飛鳥に、青嵐は不機嫌を隠そうともしない。 「君も変わらないな。とっとと帰れ」 「あら、なんの事かしら? 近寄らないでくださる? 胎教に悪影響ですわ。生茂くんみたいな素直な子は別ですけど」  しっしとぞんざいに家主を追い払う仕草に、生茂の方が焦ってしまう。  万事がこんな調子の兄と弟の嫁は、社長と秘書の間柄。なにがどうなってこのような関係になっているのかは不明。思っていることをポンポンと互いに言い合うものの、どうもいがみ合ってはいないらしいので、外野はハラハラと見守るしか術はない。 「なにしに来た」 「忘れてたっ!」  腕を組んで眉間に皺を寄せ義妹を見下ろした青嵐に、存在を忘れ去られていた実の弟から声が上がる。 「旅行の土産持ってきた! 兄貴のところに居るとは思わなかったから、イクのはまた持ってくるな」 「え、俺は別に……」  気持ちだけで充分。 「もらってやって。生茂くんのお土産悩んで悩んで、一番に渡したかったのに引っ越したって知ってしょぼくれてたんだから」 「……え」  魅惑的にウインクを投げかけた飛鳥を見上げ、それから野分を呆けたように眺める。 「だって、親友だろ!」  親友。  配偶者でも、近親者の立ち位置でもなく。他人の中で一番近くある存在として。歩むことを許してくれる。  見開く、瞳。 「――あぁ、そうだな」  あたたかな気持ちで、生茂は微笑んだ。

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