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第2章 集結、それぞれの想い 2

 書類に目を通し、近々の必要な法律の暫定改正案について調印を終えたところで、まもなく正午を迎えるところとなった。 「ニコデムス様、参りましょう」  真紅のマントを手にイェルクがドアの前に立っている。僕は背伸びをして肩を軽く解してから席を立ち、マントを羽織った。ずっしりとした重みのあるマントを、イェルクが整え、ドアを開ける。 「ニコ」  廊下に立っていたのは、アシュレイだった。手にナイフのようなものを持っていて、イェルクの顔が引き攣る。 「アシュレイ、何をする気だ」  気色ばむイェルクを制して、僕はアシュレイの正面に立った。悪意は感じられないが、相変わらず無表情なので感情が読みにくい。 「それは?」  ナイフを指す僕の問いには答えず、膝をつき僕の顔に手を伸ばした。前髪をやんわりと掴み持ち上げられる。  ざく、と小気味良い音がして、僕は目を見開いた。アシュレイの手が離れても、視界を遮っていたものがどこにもない。急に不安になって髪に、右眼に触れる。 「枷が外されて恐ろしいか」  彼の手に、切り取られた髪が握られている。今まであった地面が揺らぐように感じ、心臓の音が激しく鳴り始めた。  見抜かれていた。劣弱意識を隠すために自分で自分の世界を閉じていたことを。皆と同じ人間だと、そう思うことで安心していたかった。僕に好感を抱いてくれる人達に嫌われたくなかったから。隠していれば、この紅い眼のせいにしておけるから。  アシュレイは立ち上がりナイフを布に包んで服の内側に収めると、廊下の窓を開けて髪を風に乗せて飛ばした。開け放たれた窓から青い空が見え、鳥が羽ばたいている。 「ニコ、どうだ。閉じた世界から放たれた気分は」  畏怖、嫌忌、不快感――それらを真正面から受ける勇気が無かった。目を背け殻に籠っていれば、嫌なものを見ないで済む。イェルクやラッセや、優しくしてくれる使用人達だけに目を向けていれば良かった。  でも、僕はもう卵の中で親の温もりに包まれて育てられていればいいだけの雛ではない。自分の羽根で、優しいだけではない世界に羽ばたいていかなければ。僕は、一国の王なのだ。 「……悪く、ない」  決意を籠めてアシュレイを見上げると、黄金色の瞳が細められ彼が僅かに口元を緩めた。 「ニコデムス様、皆が待っています」  その声に振り返ると、イェルクが優しく微笑んでいた。彼の顔をこうやって両眼で見るのは、久しぶりのような気がする。僕は、彼の横を通り過ぎ歩き出した。 「アシュレイ、お前も列席するのだ。ニコデムス様を推挙した者として席を外すなど許されぬこと」  イェルクの強い口調にふっと息を吐くと、イェルクと肩を並べて僕の後ろに付いて歩く。 「……礼を言う。私には出来ないことだった」  アシュレイに対して好感を抱いていないと思っていたイェルクから、そんな言葉が飛び出してきて驚いた。アシュレイも予想していなかったのだろう、言葉がすぐに出ないでいる。 「お前には、これからニコデムス様の前に立ち塞がる障壁を切り裂く刃となってもらいたい。私ではもはや及ばない」  忌まれ疎まれ追いやられた王子ではなく、人々の羨望、期待に応えられる堂々たる王と成らなければならない。そのためには、人々を率いるための力が必要だ。 「私が切り裂く刃なら、イェルク、お前は王の懐刀だ。私が討ち損ねた魔障を一閃にて斬り守るための」  押し黙っていたイェルクが息を漏らすように笑う声が聞こえた。 「……ありがとう」  階段を降り中庭に出ると、講堂への扉が見える。笑んだ顔を引き締め、高鳴る鼓動を落ち着かせる。  儀式の時の衣装に着替えた衛兵がドアを開ける。僕は目を瞑り、胸に手を当てる。この二人の忠義に報いるためにも、僕は強くあらねばならない。目を見開き、一歩足を踏み入れる。  正面に戴冠式を司る法王の姿が飛び込んでくる。そして、左右にヤーコブや政務官、輝く銀の甲冑に身を包んだヴァルテリら騎士団、末席にラッセとラッセの父の姿が見える。  朱色の絨毯の上を力強く歩いた。僕の顔を見てざわめく人達の間を顔を下げることも背けることもなく、ただ歩く。  魔女の象徴である紅い右眼を持ち、王の妾の子であることを決して転嫁しない、自分自身を貶めない。この身の全てを、運命を受け入れ、信じ、強く希望する。  階段を上り、白髪の老いた法王の横に立つ。彼のくすんだ蒼い瞳は僕の眼を直視しても揺るがず、全てを慈しみ愛するような柔らかな光を放っていた。  法王が王冠を手に取り、僕は頭を下げる。人々のざわめきが段々と小さくなっていく。 「初代アレクサンテリ王の名において、ニコデムス・アレクサンテリ・ユリハルシラを七代目アレクシル国王に任じる」  頭の上にずしりとした重みを感じる。父が、兄が、アレクサンテリが被った王冠だ。  僕は顔を上げ、胸に手を当てて歩んできた道を振り返り、皆を見下ろす。 「本日を以ってアレクシル国王を拝命した。我が身命を以ってその任を全うすることをここに宣明する!」  高らかに声を上げる。一瞬静寂に包まれた堂内は、やがて拍手に掻き消された。  祈祷など一通りの儀式を終え、講堂を出るとそのまま城下が見渡せるテラスへ向かう。民衆に自分の姿を晒すのは初めてのことで、緊張しないと言えば嘘になる。 「ニコ」  テラスに上がる階段の前でアシュレイに声を掛けられ立ち止まる。 「私もお前と共に民衆の前に出よう」 「え……?」 「この国で生活するのだ。いつか人の目に曝されることになる。その度に面倒な騒ぎが起きても困る」  歴史を知らない者もいる。彼がベルンハルト皇帝に仕えた伝説の吸血鬼であることを伝え、安心させる必要があるだろう。 「分かった」  アシュレイを連れて階段を上ると、城を囲むように沢山の人が集まっていた。僕の姿を見ると騒がしい音が一瞬止み、次第にまたざわめき始める。  眼の事は生まれた時から噂になっていた。片目が紅い、魔女の血を受け継ぐ異眼の王子、と。国中で知らない者はいないだろう。  見た目ではない、王としての資質を民衆に受け入れてもらうのだ。僕は一歩歩み出て、テラスの柵に手を掛けた。 「僕は、本日第七代国王を拝命したニコデムスです。 皆さん知ってのとおり、今我が国は最大の危機を迎えています。僕はその窮地を脱するため、命を懸けてその任に務める所存です」  ざわめきは止まない。声が届いていないわけではない。どうすればいいか決めかねている、戸惑っているのだ。 「皆さんに紹介したい人が居ます」  アシュレイが一歩一歩階段を上り、僕の横に立つと、誰かが「吸血鬼だ」と叫んだのを切欠に「化物!」などと悲鳴にも似た声が飛んだ。しかしアシュレイの顔を見ると、いつも通り冷静で特に怯んだ様子もない。予想していた反応だったのだろう。 「僕の臣下となった吸血鬼アシュレイです。彼はかつてベルンハルト皇帝と共に大帝国を作り上げた伝説の吸血鬼、[[rb:漆黒の幸福 > フェリクス]]と呼ばれた者です。彼の力を借りれば、バルタジとの戦争に必ず勝利できるでしょう」  まだ、現段階で勝算がある訳ではない。しかし民衆の不安をここで除き、国の士気を上げ、協力してもらわなければならない。バルタジと戦うのならば、せめてこちらが一枚岩でなければ難しい。 「民よ、聞いたか。王がお前達のために血を流すという。お前達は王の血が流れた大地を踏みしめるばかりで眺めているつもりではあるまいな」  アシュレイの声が一瞬で人々の声を掻き消した。五百年もの時を生きてきた荘厳な声音に息を呑む。 「我は異眼の王ニコデムスに従い、必ずこの国に栄光をもたらす! その栄誉の行進に列したくば共に血を流し、共に戦い、共に守り抜こうぞ!」  城下に響き渡る声に静まり返っていた民が、口々に何かを呟き出し、そして誰ともなく声が上がる。 「アレクシルに栄光あれ! 我らに誉れあれ!」  その声は大きな渦となって国中を巻き込んでいくようだった。僕は傍らのアシュレイを見上げる。 「助けられてしまったね。やっぱり僕は王としての威厳に欠けるらしい」  その言葉にふっと僅かに笑んで、僕の腕を掴むと高く天に突き上げた。その瞬間、民衆の声が大きくなり拍手と歓声が上がった。 「民は常に象徴を、先導者を欲している。お前が国の象徴で先導者なのだ。強い言葉で、堂々たる態度で民を導け。お前は紛れも無く、彼らの王だ」  アシュレイと共に城下の人々を見詰めた。期待と羨望を籠めた眼差しで、新しい王を受け入れている。僕は、その想いを背負い、率いて、国を守り抜く。この国に再び平和で幸福な日々を取り戻す。この身が大地に臥し、死せるとしても。  階段を下り、笑顔で待ち構えていたイェルクに思わず抱き付いた。身体が震えている。力が、入らない。 「ご立派でした。とても」  イェルクが優しく背中を撫でる。こうやって甘えたのは、十年振りくらいだろうか。 「ありがとう。でも、独りじゃ駄目だった。アシュが居てくれたから」  急に恥ずかしくなってイェルクから離れて、アシュレイを振り返る。いつもの無表情が少し柔らかいような印象を受ける。 「臣下として民に聞かせる言葉があったまで。しかし、これでようやく好きに動き回れる。城内の散策にも飽きてきたところだ」  先程の演説で僕と彼の姿は国中に知れ渡るものとなっただろう。アシュレイにしてみれば城下を自由に動ける免罪符を得たも同然だ。子供のような言いように思わず笑ってしまう。 「その前に昼食だ、アシュレイ。調理係には果物はそのまま出せと言っておいたぞ」 「それは助かる」  僕とイェルクは笑うと、アシュレイは訝しげな顔でテラスを後にした。  服を着替えるために自室に戻っている間に、アシュレイはさっさと果物を幾つか食べた後、袋に詰めて城を出て行ったと聞かされた。行動が早い。  僕は昼食を取った後、執務室に向かおうとしていると階段の下の方が騒がしくなっていた。 「何の騒ぎでしょうか」  僕とイェルクは階段を下りて一階の広いエントランスに集まっている衛兵や使用人たちの元に駆け寄った。 「どうしたの?」 「お、王様! あそこに、人影が……!」  衛兵が指差したのは明り取りの天井のガラスだった。良く見ると、黒い影は人の形をしていて、それも二人のようだった。  しかし瞬きをした次の瞬間には、跡形もなく消えてしまっていた。慌てて衛兵たちが外の様子を見に出て行く。 「ちょっとうるさい人達には退散しててもらおうか」  どこから聞こえて来たか分からない、男とも女ともつかない、子供のような声が降ってくる。と、風が強く吹き込んで出入り口のドアが閉められた。  声の主を探して視線を泳がせると、正面の階段の三階に続く踊り場に人影が立っていた。 「貴様、何者だ!」  イェルクが短刀に手を掛けながら叫んだ。使用人達は悲鳴を上げて腰を抜かしている。  警備体制は万全のはずだ。騎士団や衛兵の巡回を掻い潜って城内に侵入できるはずがない。  大きな人影と小さな人影が見える。小さな人影が何かもう一人に言うと、三階の踊り場の柵を乗り越えて飛び降りた。誰もが悲惨な結果を想像したが、まるで羽根のようにふわりと一階まで降りてきて着地する。  突然眼前に現れた人物に目を奪われる。巻き毛の真紅のショートカット、短い丈の真紅のドレス、真紅のハイヒールの靴。まるで雪を溶かしたように白い肌。そして十歳ほどの小柄な少女が目を見開くと、その双眸は血のように紅かった。  ――魔女。  空気が一気に凍り付き、緊張が走る。  少女は微笑みながら一歩一歩と歩き出す。彼女の足は真っ直ぐに僕の方に向いていた。 「止まれ! ニコデムス様に近付くな!」  イェルクが僕を守るように立ち塞がる。しかし彼女の歩みは止まることはなかった。しかし、どこか変だ。 「……待って、イェルク。大丈夫」 「しかし――」 「大丈夫だから」  強い口調でそう言ってイェルクを下がらせると、少女が歩いてくるのを待った。 「貴方が王様?」  正面に立つ彼女に目を奪われる。自分以外に見たことがない紅い瞳だ。しかしその瞳は焦点が合わず、僕を探すように彷徨っている。  と、彼女は一歩近づくと手を僕の顔に伸ばした。イェルクが動こうとするのを手で制する。 「この子、目が見えないんだ」  彼女の手がひたと僕の両頬を包むように触れ、光の無い紅眼が、僕を捉えようと真っ直ぐに向けられる。揺れる眸は、僕の右眼をみている。 「紅い眼、わらわと同じ。でも、魔力は感じられない」  至近距離まで彼女の顔が近付く。見えない眼で心を覗き込まれているようだ。 「……ね、綺麗な王様。キスしてもいい?」 「え……?」  彼女の唇が触れそうな距離まで寄せられた時だった。 「戯れもそこまでだ」  少し苛立ちを感じさせる強い口調で、アシュレイの声が降ってくる。アシュレイは大きな人影が立っている辺りから背中の羽根で飛ぶと、僕の隣に舞い降りた。すぐに羽根をしまうと少女の肩をぐいと押して僕から引き離した。 「あ、フェリクスちゃん、久しぶり」  少女はアシュレイの様子などお構いなしに嬉しそうに声を上げた。 「……今はアシュレイだ」 「へえ、また名前を変えたの。噂だけでも四つくらい聞いたけど」  二人のやりとりを呆然と眺めていると、アシュレイが少女に目配せをする。そこで何か思いついたような顔をして、ドレスの裾を持ち上げて頭を下げる。 「わらわはアリ。アレクシル国王と共にバルタジと戦うため、ここに来た」  僕の方に手を差し出し、その手を握ると嬉しそうに笑った。 「よろしくね、王様」  彼女は――アリ。僕はアシュレイを見上げると、そうだと言うように頷いた。 「この少女が……伝説の魔女……」  イェルクの呟きに、アリが噴き出すように笑った。それを見て、アシュレイが呆れたように息を吐く。 「アリは男だ。昔から男も女も魔女と呼んでいた」  服装からしてもどう見ても少女にしか見えないが、「彼」だったと知って目を見張る。 「話し方も服装もよく『魔女』に化けたな」 「凄い魔女に思われるように考えたんだあ。服はロビンが選んでくれた」  そう言うとアリは視線を三階に彷徨わせた。あの大きな人物はロビンというようだ。 「彼は……アリの知り合い?」 「そう、ロビン。でも吸血鬼だからここには降りさせなかった。皆怖がると思って」  吸血鬼と聞いて、空気がひりつく。アシュレイが特別なだけで、他の吸血鬼は人を襲うものだからだろう。 「でもロビンはわらわの血しか飲まないから安全なの。それでも怖いようなら鎖で繋いでもらって構わないけど」 「アリの友人ならその必要はないよ。気を遣わせてごめん」  しかし一つ疑問が残る。吸血鬼に血を吸われる、つまり噛まれた人間は吸血鬼になるのではなかったか。アリは一体何者なのだろう。 「ロビン! 降りてきて!」  アリが呼び掛けると、三階から二階、二階から一階へと軽やかに飛び降りてくる。アリの側に歩み寄った彼は、遠目から見ても大きかったが、アシュレイと同じくらいの身長でアリと並んでいると親子のように見える。外套に全身を覆いフードを深く被っているため、顔も一切見えない。身体つきから男性だと判別できるくらいで、年齢も窺い知れない。 「ロビン、だ。信用してもらい光栄に思う」  低い声で息が抜けるような独特な話し方だった。アリがロビンの腕を引き寄せるように掴む。 「ロビンは七百年間わらわの血しか飲んだことがない。他の人間の血が欲しいなんて微塵も思わない。ね、そうでしょう?」  甘えるような声でロビンを見上げた。ロビンは「そうだ」と言ってアリの赤毛を大きくごつごつした手で撫でる。二人の関係は友人というよりももっと深い絆――楔や枷という方が近い――を感じさせた。 「貴方は、何も異常はないのですか? 吸血鬼に噛まれれば吸血鬼になるのでは」  イェルクも不思議に思ったのだろう。恐らく誰もが抱いた疑問を口にする。  と、さっきまで楽しげだったアリの表情が曇った。何か、言いたくないことを言わなくてはならないのだ。 「ひとまずここでは何だし、執務室に移動しよう。アリが追い出した衛兵も城内に入れてあげないと」  僕ら以外の人々が騒動を聞きつけて集まり始めていた。アリとロビンは仲間になるつもりで来てくれているとは言え、魔女や吸血鬼に悪感情を抱く人がいないとも限らない。受け入れることにできるだけ抵抗感を与えない方法で紹介した方がいい。  思い出したようにアリが正面の扉を開けると何が起こったか分からないように呆然と衛兵が立ち竦んでいた。 「じゃあ連れて行って、アシュレイちゃん!」  大きな瞳をさらに大きく見開いてアシュレイの腕を掴むと、両腕を絡ませた。 「自分で歩けるだろう」 「歩き慣れていない場所は移動しづらいの」  アシュレイがちらと僕の方を見る。なぜか胸がちくと痛んで笑顔を返すつもりが苦笑いのようになってしまった。  嫌そうな顔で息を吐いて、ゆっくりと歩き出す。一応歩幅を気にしているようだ。  嬉しそうに笑いかけながらアシュレイに何か語り出したアリの後ろを黙ってロビンがついて歩く。何となく彼が可哀想になって隣に並んだ。フードから覗いた淡い緑色の目はただアリだけに向けられている。 「ロビンさんは――」 「ロビン、でいい。畏まる必要もない」 「うん、じゃあロビンは、アリとは七百年ずっと一緒にいるの?」  何か思うことがあったのか、遠くを見るように目を細め、そっと瞼を閉じて見開く。その目に切ない色が浮かぶ。 「……そうだな」 「七百年もどうやって生活してたの」 「沢山の場所を二百年くらいの間旅した。後の五百年は……俺の故郷の森を拠点に聖母や聖母の遺児の情報を集めて、その場所に赴くという毎日だった」  ――聖母。アシュレイは聖母の遺児がバルタジに組みしていると知ってアリの来訪を予感した。五百年も追いかけているとは、アリと聖母には並々ならならぬ因縁があるのだろう。  階段を上り執務室への廊下を歩く。アリの楽しげな後ろ姿を見つめて、ロビンの目が優しい光を帯びる。 「不思議だろう。目が見えないのに自由に歩ける」  今はアシュレイに掴まっているが、初めて対面した時も手探りする様子もなく足取りはしっかりしていた。近くまで来るまで、彼の目が不自由なことに気付かなったほどだ。 「どうやっているの?」 「魔法だ。風を操って障害物や物の形状を特定している。空気の全てが、アリの見えない手なんだ」  千年もの間、彼は世界を目では無く感覚だけで視ているというのか。あの紅い瞳に見つめられていると、内側を視られている気がしたが、あれはあながち間違いじゃなかったかもしれない。 「目で見ないから、アリは国や宗教や見た目で他人を差別しないし、皆を平等に扱う。俺のことも、人として扱ってくれた」  全身を外套で隠しているのは、吸血鬼と見破られないためのものではないのだろう。「人として扱われなかった」理由を覆い隠しているのだ。  執務室の前について、イェルクが持っていた鍵でドアを開ける。先に僕を通そうとしたようだが、アリが勢いよく飛び込んでいって、一番奥の長椅子に座る。 「すっごいふかふか! さすがお城の椅子は違うね!」  無邪気にはしゃぐ姿は見た目と相応の子供のように見える。  僕はアリの隣の一人用の椅子に座り、アシュレイとイェルクは正面の長椅子に、ロビンはアリの後ろに立っている。 「では、先程の話の続きを。まず、アリ、貴方が吸血鬼にならない理由をお答え頂きたい」  長椅子に横になっていたアリが、居直ると髪を掻き上げて耳を、口を横に開いて歯を見せた。耳は先が尖り、犬歯が通常よりも鋭利だ。 「わらわは吸血鬼だ。半分は、ね」 「半分……?」  ふうと息を吐いて胸の前で手を組み椅子に深く腰掛ける。その姿と光の無い眼差しはついさっきまでいた十一歳の少年の面影を掻き消した。 「わらわの母親は世界に名だたる有数の魔女だった。全ての魔法を掻い摘むように学び、その中でも召喚魔法に関しては類を見ない優秀さだった」  召喚魔法、というのは英霊や魔物を呼び出し操る術だと本で読んだことがある。今では禁術として、調べることも許されず、文献は全て焼き払われてしまっている。 「母は良い魔女ではなく、度々その力を悪用していたが、蝙蝠を媒介に召喚した魔物に人を襲わせたところ、噛まれた者たちが皆血を求めて彷徨う吸血鬼になってしまった」 「つまり吸血鬼は……アリの母上が作り出したもの、ということ?」 「正確には違う。始まりはそうだけど、母はすぐに魔物を還したし、吸血鬼化した人間を葬ってる。そのうちの、一人を除いて」  淡々と語っているが、アリの表情は暗かった。本当は思い出すのも苦痛なのだろう。誰とも目を合わせず、ただ目の前の背の低いテーブルの辺りに視線を落としている。 「母はその男に恋をしていた。だから吸血鬼となっても生かして自分の側に置き、結局殺すことになったが、その男との間に子を身籠った。化物を胎内に宿した母は生死の際を彷徨い、治癒の魔法を使わなければ出産できなかっただろう。そうして、ついに生まれたのが、わらわと弟ユリ」  その名を聞いた瞬間、アシュレイがぴくと顔を強張らせる。知っている人物なのか。 「わらわは人に近く、ユリは吸血鬼に近かった。わらわは人のように食事ができ吸血衝動もなかったため、魔法を教え込まれ育った。ユリは吸血鬼としての要素が強く疎まれて、その憎しみからついに母の殺害に至り、わらわとユリは道を分かちた。それが千年くらい前の話だ」  アリが語る千年前の話は、事実だけを並べた感情の介入しないものだった。アリとユリの二人が別れるまで、本当は様々な出来事があったに違いないが、それを語るのは今以上に辛いことだろう。 「つまり……半分人、半分吸血鬼の血が流れているために、吸血鬼が血を吸うことができても、噛まれて吸血鬼化することはない、ということか?」 「そういうことだね」  黙って聞いていたイェルクが納得するように頷き、すぐに何か疑問が浮かんだようで口を開く。 「因みに、ユリは聖母だ」  聞かれることを予想していたのだろう。言葉を遮って答える。  ――聖母、がアリの弟、ユリ。  確かにそれならばアリが聖母を追いかける理由も分かる。 「別れた後に召喚魔法を学び、蝙蝠から魔物を呼び出し、吸血鬼を作って回ったのも彼の仕業だ。魔物から生み出された原始の吸血鬼が人を襲い、新たな吸血鬼を産んだ。アシュレイも魔物に襲われた原始の吸血鬼の一人だ」  アシュレイを見ると、怒りと悲しみが綯い交ぜになったような表情でアリを見つめていた。  しかしその原始の吸血鬼も吸血する者のようだが、なぜアシュレイだけ果物を食べるのだろうか。その疑問をぶつけるのはアシュレイ本人であり、まだその時ではないと思えた。 「それが五百年前だ。ベルンハルト皇帝は最後の戦いでユリを有する敵勢力を倒した。ユリはその時アシュレイの手で倒されたが、彼を聖母と崇拝し従う仲間が生き残っていた」 「聖母の、遺児……?」  アリは僕の方を向いて深く頷いた。  五百年前、アシュレイはユリのせいで吸血鬼になり、その復讐を果たしたが、アリは人々を吸血鬼化した弟を、そして付き従う遺児を屠るために五百年生きてきたのだ。今回の来訪も、その目的のため。 「アリの目的ははっきりしている。アレクシルに組するのもバルタジに組する聖母の遺児を抹殺するためだ。世界から失われつつある魔法の力を利用しない手もないだろう」  アシュレイの言葉に引っかかりながらも頷き、考え込んでいるイェルクの方を向く。 「確かにアリの加入について、拒否する理由も見当たらない。もちろん歓迎だ」 「そうですね。背景は複雑ですが、目的のために戦力になってもらえるなら助かります」 「ありがとう。改めてよろしく」  差し出された小さな手を握り返す。アリは決意を込めた瞳で僕を視ていた。 「でも、僕は『利用』する気はないよ。アシュ、君についても」  彼に備わった力を僕が利用しているなど思っているのだろうか。アリも同じように利用する、と。それは違う。 「僕はただ力を貸して欲しいだけだ。無理強いもしないし、僕のことを見限って去るのも自由だ。ただ、僕を信じて一緒に戦ってくれるなら嬉しい、というだけ」  表情の硬かったアリが破顔一笑すると、僕に覆い被さるように抱きついた。 「良い! すごく良い! ベルンハルトとは違う!」 「アリ、離れろ」  どうすることもできずに固まっている僕から、アシュレイはアリを無理矢理引き剥がした。 「じゃあ、話もまとまったし、わらわ達にお部屋をちょうだい。今日はもう疲れたし休みたいから」  切り替えが早いタイプなのか、笑顔でドアの前にいく。さっきまでの緊迫した空気が一気に和らぐ。 「イェルク、空いてる部屋に案内してくれる? 僕はここで仕事の続きをやっておくから」 「分かりました。こちらに」  イェルクはアリとロビンを引き連れて部屋を出て行った。嵐のように騒々しさは過ぎ去り、僕とアシュレイだけが、部屋に残される。  椅子から立ち上がり、書類の積み重なる机に座り直した。 「……聞かないのか」  書類に視線を落とした瞬間、少し訝しげな声が降ってきて顔を上げる。いつの間にか隣にアシュレイが立っていて、金色に輝く美しい瞳を見詰めながら微笑んだ。 「君が、話したい時に――」 「今までのことを、私のことを知りたくないのか。アリには聞いただろう」  まるで咎めるような言い方に驚く。アシュレイの気持ちを優先したいと思ったけれど、それが逆に彼を苛立たせてしまったようだ。 「君のことだ。気にならないわけがないよ。でもきっと辛いことを思い出させてしまうと思ったから」 「アリはどうだか分からないが、五百年前復讐も果たし、決着がついたことだ。悲しみも怒りも憎しみも風化した、ただの通り過ぎた出来事に過ぎない」  そう語りながら、僕の後ろの窓に近付き、遠くを見詰める。その眼差しは、哀愁に満ち見ているこちらが胸を締め付けられるような切ない色に染まっていた。  彼の過去には、修復不可能な、深い傷が刻まれている。目を背けることすら叶わない何かがある。本人がそれを意識していないほどの、深淵に。 「話してくれるなら、お願い」  その言葉を聞くとアシュレイは少しむっとした顔で僕の正面に立った。きょとんとして彼の顔を見上げると、小さく息を吐く。 「ニコ、お前はもっと王らしくしたらどうだ。王は命令するものだぞ。家臣に願いなど――」 「王と家臣として接してないよ。今は、友人として話してる。ここには僕等しかいないのだから」  表情が和らぐのが分かる。段々、アシュレイの無表情からの若干の変化が掴めるようになってきた気がする。 椅子の背凭れに手を乗せると、真っ直ぐに僕を見詰めながら語り始めた。 「私の生まれは、極東の地から更に南に位置する海上に浮かぶ小さな島だ。色とりどりの花と果物、多種多様な動植物が息づく、美しい島だった。そこで果樹園を営んで、母と二人で生計を立てていた。今ではその頃の記憶も、霞みがかってあまり思い出せないが」  五百年だ。幸せな思い出の上に憎しみや悲しみの記憶が上塗りされ、思い出すことすら難しいものとなっているのだろう。遠いところを見るように目を細め、視線を外す。 「ある日島に外国の船が来た。貿易船だと言うが、荷物は載っていなかった。乗っていたのは赤髪赤眼の青年と兵士数名。彼らはこの島の蝙蝠を捕獲して欲しいと言ってきた」 「その、青年って……」  アシュレイは強く頷き、彼の眼が鈍く光る。瞳の奥に青白い炎が揺らめいているようだった。 「村長が誰かに捕らえさせて蝙蝠を渡したのだろう。夜胸騒ぎがして目が覚めると、昼間のように村の集落の方が明るかった。私は火事だと思い、急いでその方に走った。しかしそこで見たのは、村人が巨大な蝙蝠の化物に襲われている凄惨な光景だった」

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