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午前午後と会議が続き、自分の席に戻ると書類やそのコピーが軽く山になっていた。
これは定時には帰れそうにないなと諦めて仕事に取り掛かる。この数日は春也の引っ越しで家の中も散らかっていた。
春也は美香さんと話し、結局一緒になることにしたらしい。結婚式などはせずとりあえずは彼女のアパートで暮らすのだとか。
最近は帰らなくていい理由探しが日課になりつつある。スマホから仕事があって遅くなる旨を伝え、書類整理に取りかかった。
「部長、赤松商事からお電話です」
「ん、わかった」
電話対応をしていた遠野が内線で回してくる。
受話器を取りながらそう言えば遠野ともあれっきりだと思った。翌日はお互いにそわそわしたが、どちらからも話を振らずにいるといつも通りに戻って行った。
赤松商事の西屋と話をしながら遠野を見る。
真面目な男だ。あんな仕事をしていても遅刻は一切ないしサボりも見受けられない。だからか夜な夜な男に足を開いているようには見えなかった。
電話を終えて時計を見る。午後八時を回ろうとしていた。
西屋は話好きの男で何かと電話をかけてくる。電話対応が苦手だった僕からするとちょっと信じられない。それでも物分りはよく、打ち合わせとなればさくさく進むので少々面倒だとは思うが別段嫌ってもいない。
ただ余計な時間を食ったなとは思う。
帰りたいわけではないが終わらせなければならない書類がこんもりとあるデスクはやる気を削いでいく。
ため息を堪えて地道な作業に戻った。嫌がってもやらなければ片付かない。
少しずつ山を減らし、ファイルしていく。
下を向いて作業していると、不意にコーヒーのいい香りがして顔を上げた。
遠野が備品のマグカップにコーヒーを入れてくれたらしく、デスクの空きスペースに置かれた。
「一服です」
「ありがとう」
ふと仕事場を見渡すと二人きりになっていた。
普段ならもう二、三人残っているのに……。
そう考えて今日が金曜だったことを思い出す。今朝、週末くらいは早く帰るように声掛けをしたのは自分なのにすっかり忘れていた。
「ファイル、これ戻しておきますか?」
「あ、頼むよ。ありがとう」
「いえ」
遠野がファイルを棚に戻してくれる。それだけでかなりデスクが片付くのでつい甘える。
週末だが、遠野は帰らないのだろうか。まさか僕と同じで曜日を忘れているわけでもないだろうし。テキパキ片付けをする遠野を横目に見ながらパソコンを操作する。コーヒーを飲み、画面と睨み合っていると、遠野のスマホが鳴った。
その瞬間、大げさに遠野の体が跳ねる。
「ふふっ」
つい声に出して笑うと罰の悪そうな顔で振り向いた。
そして廊下へ向かいながら電話に出る。
「はい、進一です」
ああ、と思った。
遠野は廊下で話し始め、声は最初の一声しか聞こえなかったが、直感的にストロベリーパートナーからの電話だと思った。
そしてそれは間違いではなかったらしく、廊下から戻ってくると彼は帰り支度を始めた。
「すみません、お先に」
「うん、ご苦労さま。あ、コーヒーありがとう」
遠野は少し笑って出て行った。
僕ももう少ししたら帰るつもりだった。
遠野が帰ってから、そう言えばどうしてそんなに働くのか気になった。この前はシたがっていたが、セックス目的なんて卑猥な理由で働いているのだろうか。それこそ、僕みたいにプロを呼ぶ方ならわかるが、客相手となると病気をもらわないとは限らない。
それなら金銭トラブルだろうか。借金があるとか。遊ぶ金がほしいとか。
少し考えて違うと思った。そう言う後ろ暗さはない。金使いの荒さは滲み出るものだ。遠野に金にまつわる陰は感じられない。
どうして働いているのか聞いてみればよかった、と、今さら思っても仕方がない。
考え過ぎかもしれないが、何だか別れ際の笑い方も引っかかる。曖昧と言うか、普段のような溌剌とした感じがなかった。
遠野画淹れてくれたコーヒーを飲み終わったタイミングで席から立ち上がる。
「はあ。帰ろう、帰ろう……」
自分に言い聞かせるために声に出して帰り支度を始めた。
悩んでも仕方がない。そもそもあの電話が本当にストロベリーパートナーからのものかもわからないのに。あれこれ思案しても無駄だ。
カバンを持ち明かりを消して職場を後にする。
警備の人とエレベーターの前ですれ違った。
色々と考えながら作業していたせいで普段より遅くなってしまったようだ。
暗くなって気味の悪い会社から抜け出し、駐車場の車に乗り込む。
エンジンをかけ走り出そうかという時、フロントガラスに白いものがひらめく。ワイパーに紙が挟まっていた。
一旦、車を出てその紙を回収した。どうやらゴミではないらしくふたつ折りになっている。
開くと几帳面そうなきれいな字で住所が書かれていた。名前はないがこんな字を書く知り合いは一人しかいない。
車に戻りナビに住所を入れた。そこは、ここから四十分ほどかかる場所で僕のマンションとはほぼ逆方向だった。
メモを残したのは、字面からして間違いなく遠野だが、どうしてこんなことをしたのかわからない。わからないが、ナビが示す場所に行ってみたい気もする。
それに帰っても無駄に気まずいだけだ。明日は土曜なので仕事は午後からで十分に間に合うわけだし、冒険してみてもいいかもしれない。
理由はわからないが来てほしいから住所を残したのだろうし。
「わっ」
そこまで考えてスマホが鳴った。
春也からの着信を知らせる音だった。
別れると決めてから前より頻繁に電話がかかってくるようになった。おそらく普段より遅いから不安になったのだろう。
「もう帰るよ」
電話に出てすぐそう伝えると、向こうから『あ、ごめん』と謝った。
「何か食べた?」
『……まだ。でも、あの、ご飯は作ってあるから』
「悪いけど明日食べるよ。今日はもう食べちゃったんだ」
『そう……』
嘘をつくのは心苦しい。だけど、いつまでも一緒にいたら美香さんに悪い。
春也は美香さんに僕のことを伝えていない。そうしないでほしいと僕が頼んだからだ。夫が男と通じていると知れば嫌な思いをする。
これから彼らを待っている子育てを思えば、彼女や子どもには稼ぎ手となる父親が必要だ。僕は足枷でしかない。
「明日、午前中は荷造り手伝うから」
『なあ本当に、引っ越したら会っちゃだめなのか?』
「そんなことしたら本当に浮気だよ」
『友だちとしてさ……。美香も紹介するから』
「別れてつらいのは少しの間だけだよ。君は父親になれるんだから。子ども、ほしがってたじゃないか」
『それはそう、だけど、でもそれは……』
春也の店のオーナーがニューヨークに支店を出すと言っていたらしい。
英語が堪能な日本人スタッフとして春也が抜擢され、ニューヨークに引っ越したら結婚して養子を育てようと二人で夢のような計画を立てていた。
だが結局、支店は土地契約に不備がありお流れになった。
『美香が嫌なんじゃない。だけど、俺は衛さんと親になってみたかったんだ』
僕はニューヨークの話がなくなった段階で結婚は諦めていた。もともと、二人で慎ましやかに暮らしていくのも悪くないと思っていたからだ。
ただ、春也は違っていたらしく、何度もオーナーに掛け合い何とか海外に店を出そうとしていたようだ。まあ、結局しびれを切らして浮気に走ったわけだが。
もともと僕らは理想が違ったのだろう。ニューヨーク行きの話も僕にとっては半分夢物語だったが、春也はそれがしっかり現実だと見据えていた気がする。今回の一件はそんな風に行き違っていた僕らの理想が偶然にも最悪な形で露呈しただけだ。
いつか別れは来ていたのかもしれない。
そう思ったらわざわざ避けるのが馬鹿らしくなった。
「帰ったら、ご飯食べるよ」
『……もう食べたんじゃないの?』
急にそう呟く僕を不審に思った春也が戸惑ったような声を出す。
「ごめん、君と顔を合わせるのが億劫だっただけだから……」
僕は言いながらメモを車内のゴミ箱に捨てた。やっぱり遠野に会いに行くのはよそう。彼にどんな意図があるにしろ、僕はまだ春也を優先したい。
『なんだよ。やっぱり、わざと避けてたんだ?』
「うん。ごめん、謝るよ」
『ほんとに一緒に食べてくれる?』
「うん」
後、もう数日だけだ。
僕と結婚したがってくれた男との生活の終わりが見える。
部屋に戻れば、嫌でも段ボール箱が目につく。
別れることが一番だと頭でわかっていても、やはり僕はまだ春也を好きだった。別離を想像したくないから、言い訳を考えて突き離そうとしていた。
春也はきっと彼なりに精一杯誠実でいてくれた。自分の理想を僕に合わせようとしてくれた。
僕が彼の努力にもう少し早く気づけたのなら、こんな風に深い傷を残して別れるような結果にはならなかったかもしれない。
今さらどうしようもないことだけれども、後もう数日。気まずさに負けて悔いを残したくない。
君に幸せになってほしいのだと、ちゃんと伝えたかった。
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