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 唯が来ていたらしく、貯金箱の中身が空になっていた。  ワンルームのアパートのボロさは寺岡のアパートより酷い。風呂とトイレが共同で、ゴミはためていないはずなのにゴキブリが出て、この前はそれを食べるために入ってきたらしいやたら大きな蜘蛛がいた。  値引きシールがついたコンビニのおにぎりをひとつだけ食べ、十一時半の最終の予約電話を待って冷たい煎餅布団に横になる。  今日、田口三春(たぐちみはる)から夕食に誘われた。秘書部にいる美人で、同僚の間ではかなり人気がある。田口と食事に行けばまともな夕食になったはずだ。  だが、費用は俺だろう。  借金があり、毎月寺岡に貢ぎ、唯の小遣いも用意しなければならない。それを考えると田口との食事は出費だけで利益がなさすぎる。  それに今日あたり柏原さんから予約が入るような気がしていた。  そうしたら食材を買って柏原さんの部屋で食事できたのに。生活力が高い柏原さんの手料理は本当に美味しい。  まあ予想は大外れで、冷えた爪先を重ね合わせることになったのだが。  明日は呼ばれるだろうか。  呼び出してほしい。本当なら個人的な誘いでも十分だった。客とプライベートで会うことほど厄介なことはないが、柏原さんだけは別だ。  あの人と一緒にいると気持ちが温かくなる。性的に触れてこないし、甘えたら甘えさせてくれる。頭を撫でてくれて、時々いたずらっぽく耳をくすぐってくる。  そういう時の柏原さんの顔は優しくて、たまらなくなる。年甲斐もなく泣き叫びたいような変な気持ちになっていつも枕で顔を隠した。  学生の頃、三十路なんて言ったら大人だった。でも実際三十路になってみて自分はあの頃と何も変われていないことに気づく。  声を上げても誰も俺に見向きしない。  ひとりぼっちで途方に暮れている子ども。ひょろひょろで頼りない体を縮こませ、寂しくて泣いている子どもだった俺と今の俺は何も違わない。  柏原さんはそんな俺のそばにいてくれる。  いや、柏原さんは理想の恋人を買っているだけだ。たまたま俺がうまくそこに滑り込めただけで俺である必要はない。  だがそんな都合の悪い言葉は頭の片隅に追いやられてしまう。  金で買われた時間の中、俺は柏原さんの望む恋人になる。親や友だちに紹介したいとも子どもがほしいとも言わないし浮気もしない。  そんなことを考えながら寝たせいか、見た夢は俺に現実を叩きつけるような内容だった。  横領が知られ、突き離される。たったそれだけの内容なのに魘されて目を覚ましたら朝だった。  徹夜したかのような怠さを抱えたまま出社。朝食は抜いた。給湯室に行けばなにか食べられるし飲める。  始業前にこっそり何かつまもうと思って、給湯室に入ると声がした。 「そう! それ! よかった、持ってきて」  柏原さんの声だった。友だちと話しているのか随分、砕けた感じの頼み方だった。  小うるさいお局がいたらまずかったが、柏原さんなら戸棚を漁ってもなにも言わないでくれるだろう。  電話が終わるのを待って入ると俺を見てぎょっとした顔になる。  一応あいさつをしてから、どうしたのか尋ねると「ああ、いや」と言葉を濁し、それから少し考えてこっそり教えてくれた。 「春也と仲直りしたんだよ」 「……え」  血の気が引く。 「春也って、あの……浮気の」  食欲もなくなり、腰が抜けそうになる。  シンクに手をついて「そうなんですか」とやっとのことで相づちを打つ。 「うん、あんなに大騒ぎしたのに」  柏原さんの顔が見れない。声音が嬉しそうで、それだけで胸が針で刺されたように痛い。あんな男のことを考えて嬉しそうに微笑む顔を見たら大袈裟ではなく倒れてしまいそうだった。 「朝からごめんね」 「いえ、よりが戻ってよかったです」  何一つよくない。それでももう一秒たりともこの話題を長引かせたくなかった。  給湯室を出ようとすると「待って」と慌てた感じで手を掴まれた。  ざわっとしてつい、その手を振りほどいた。 「あ、ごめん……嫌だよね」  柏原さんがさっと手を引っ込める。  嫌なわけじゃない。でもそんなこと言えない。  黙っていると「よりが戻ったわけじゃなくて」といつになく、ぼそぼそ話し始める。 「色々あって友だち的な関係に落ち着いたんだよ」 「と、友だち?」 「うん。結局、部屋は共同になっちゃって……。でも、お互い納得してるし、あの子はそう遠くないうちに海外に行くらしくて……。そっちで心機一転やり直すとかそんな感じみたいで」  珍しく要領を得ない話し方だった。  そして最後の最後に「ごめん、こんな話」と苦笑いを浮かべた。 「あと、さっきは書類忘れちゃって、それを頼んだんだよ……本当、仕事前に引き留めまでして話すようなことじゃないよね……ごめん……」 「いえ。あの、聞けてよかったです」  どんどん顔を下げる柏原さんの手を取って言った。骨っぽい手の甲を撫でる。  律儀な人だから、買ってないにもかかわらずプライベートな話をすることに罪悪感を持っているのだろう。 「まあ、書類は気をつけて下さい」 「う、うん……」  昨日の夜、俺を呼ばなかったのは部屋に春也が帰ってきて寂しくなかったからだ。  寂しくないのなら俺は必要ない。  急になぜか嫉妬心のようなものは消えて純粋に「よかった」と思えた。 「部長、存外忘れ物多いですよね」 「……え、そ、そうかな」 「この前もバタバタ走って一度、帰りましたよね」 「そうだっけ?」 「そうですよ」  自然に笑えたと思う。  柏原さんも一緒に少し笑ってくれたものの、不意に心配そうに眉を寄せる。 「えっと、平気?」 「何がですか」 「いや、平気ならいいんだけど……」  そろそろ始業の時間だった。  歯切れの悪い柏原さんの言葉が気になったが、話している時間はない。  何となく空腹もどこかへ行ってしまった。二人で給湯室を出る。  毎朝の朝礼が始まり、仕事に手をつけ始めた頃、忘れ物の書類が受付から届けられた。  恥ずかしそうに受付の子から書類を受け取る柏原さん。 「遠野くん」  同僚の安達から声をかけられ振り向く。 「その書類、名前違ってない?」  安達がパソコンの画面を指差した。 「あ、本当だ」 「遠野くんでもこういう間違いあるんだね」 「俺も間違うことくらいあるよ。助かった、ありがとう」  とはいえ、見直してみると今日入力したほとんどの部分が間違っていてぞっとする。  そんなに上の空でいたつもりはないのに。  頭の中で文句を言っても仕方がないから直しに入る。  気にしているのだろうか。柏原さんがまた男と暮らし始めること。でも、恋人ではない。そりゃそうだ。あれだけ価値観が違えば。だけど俺は春也とかいう男のことは柏原さんからの話でしか知らない。  喧嘩中の相手のことは悪く言いたくなるものだ。  ひょっとしたらそのうちに寄りを戻すつもりなのかもしれない。違うかもしれないが、わからない。  プライベートでは柏原さんとは、友人ですらない。  でも俺は構わなかった。何でもいいから柏原さんと話していたい。上司と部下と言うだけの関係でも構わないから、声をかけてほしかった。

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