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夕方から雨になるらしく、晴れていても朝から空気が蒸れている。
土曜なのに出勤の支度をしていたのが珍しかったのか、春也が根掘り葉掘り聞いてきた。僕の仕事の失敗談を期待していたらしいが事情を説明すると渋い顔になった。
「やっぱり俺が衛さんと暮らしてるの嫌なのかな」
「なんの話?」
春也は癖なのか困ったように頭をかいた。仕事向けにセットした髪が崩れて慌てて直す。
「俺みたいに好き好き言うだけが告白じゃないんだけど、わかる?」
「子どもじゃないんだからわかるよ、そういう空気くらい……。でも、そういう話じゃなかったでしょ。何で君は遠野の話になると僕とくっつけたがるの」
なまじ好意的に思っているだけに望みのない話を続けるのは苦痛だった。僕が苛立ってそれを隠さずにいても春也はへらへらしている。
「何でって、とりあえず告白してみたらいいのに。好きなんだから」
「何度も言うようだけど、子どもじゃないんだからその場の感情だけで突っ走れないの。遠野には遠野の事情があるし職場だって同じなのに」
「そんなの遠野と話せばいいだけの話じゃん。話せばわかるやつなんだろ?」
「話してわかってもらえたとしても、彼が僕と同じになるわけじゃない」
「だから! 遠野はゲイだって。ノンケなんてのは言い訳みたいなもんだろ」
ノンケだと聞いた時の状況を思い出してみようとしたが、ぼんやりしていて言い訳かどうかはわからない。セックスしたがっていたのは覚えているが、そんなことは愛し合っていなくてもできるのだからマイノリティは関係ない。
頑なに春也は遠野をゲイだと言う。
なんの確証もないくせに。僕の話でしか遠野を知らないのにどうしてわかるのだろうか。いや、わかるはずがない。
僕と遠野をくっつけたがっているだけだ。
自分と別れた僕がひとりになるから。
美香さんと別れた後にここに戻ってきたのも、デリヘルなんかで寂しさを紛れさせていた僕を心配してだろう。
そういう無意識の優しさを温かく感じる反面、うやむやにして丁度いい距離で向き合ってきたことに無理矢理決着をつけさせようとぐいぐい迫ってくる感じが疎ましくもある。
「そろそろ仕事に行かなくちゃならないから」
逃げるように言うと春也はパッと時計を見てから、僕を見て目を細める。
「弱虫」
軽口のつもりだろうが、春也のその言葉が胸に深く突き刺さった。
マンションを出て、早足で駐車場まで行って車に乗り込む。
遠野をかわいいと思っている。でもそれはストロベリーパートナーから来るデリヘルだからだ。
この前はつい、仕事前に春也と仲直りしたことを伝えてしまった。あの空気は多分デリヘルとしての勤務時間外に変な話をしてしまったせいだ。
プライベートと言うか、料金を払った時間以外では僕らは上司と部下の関係で親しいわけではない。昨日の昼食のこともそうだ。多分、前に遠野が弁当を買ってきてくれたのは業務時間内に起きたことへの純粋な謝意だったのだろう。
僕はもっときちんと関係を切り替えることを意識した方がいいのかもしれない。
会社で遠野だけを贔屓していると言われて何の弁明もできなくなる前に。
そのためには一度、副業のことを上司として聞いておいた方がいい。
そう決めて会社の駐車場から事務所へ向かった。
エレベーターに向かうと「あいつほんとに無理」と言うヒステリックな女性の声がした。
「見てるだけでぞっとする」
「ほぼ心霊現象だからしょうがないじゃん」
「あんたはいいよね、移動になったもん」
茶髪のぱっつんと、黒髪のワンレンの子が話していた。
「あいつモラハラ訴えたら勝てないかな」
「よしなよ。金だけはありそうじゃん、独身貴族って感じで」
「嘘。鶏ガラお化けパチ屋で相当すってるって聞いたよ」
鶏ガラお化け。
社内でも何度か聞いた。そのお化けの正体が同期で今は経理部にいる寺岡だと言うことも知っている。
寺岡は痩せていて目がぎょろりとしている。世辞にも女性受けがいい方ではないし、僕もできれば会いたくない。見た目は僕も他人のことをとやかく言えたものではないが、モラハラが酷いと言うのはわかる。
入社当時、同じ先輩が教育係につき、先輩がいない時は二人でいることも多かった。その先輩は女性で今は結婚して会社を退社しているが、彼女が教育係だった頃は「女の癖に」とか「何で俺が」と言うのを毎日何十回と聞かされて辟易した。
相手が寺岡だとしても陰口はよくないと思うが、愚痴を言いたくなる気持ちはよくわかる。
僕が近づくとハッとして二人とも挨拶をした後、口を閉ざした。
何となく乗りづらくて階段で行くことにした。三階だから体力が落ちた今でも行けないことはない。
火災報知器がないからか、喫煙スポットとなっているやに臭い階段を上がり、息を整えながら事務所へ向かう。肌が何となくベタついた。
事務所はいくらか湿度が低いのか、外より息が楽だった。女性社員が肌寒いと言うことで空気清浄機だけで、クーラーはつけていないので運動後の体には少し暑い。
袖をまくり、挨拶を返しながら自分のデスクに向かう。その道すがらつい遠野の方を見てしまう。もうすでに仕事を始めていてパソコンに噛りついている。
土曜日は朝礼などはなく、仕事をして書類を提出したら帰宅、という流れだった。午前で終わる人もいれば、定時まで残る人もいる。
とりあえず様子を見て必要ならあの話を遠野に伝えなければならない。
仕事を始めてから気づかれないように時々、遠野の様子を伺う。進んでいるのかどうかは険しい顔からは判断できない。
だがしばらくして手元の資料を慌ただしく見直し始め、キーボードを叩く音が激しくなる。
またなにか間違ったのは明白だった。
長袖でいるが、額には冷や汗のようなものが浮いている。
安達がそっと立ち上がって僕のところに来た。
「あの、部長ちょっと……」
「どうしたの」
安達は声を潜めて「廊下でいいですか」と聞いてきた。何となく、隣の席の遠野のことだろうなと思った。
二人で廊下に出た。
「すみません、わざわざ」
「いいよ。それで、どうしたの」
安達は少し迷っていたが、決心したように口を開く。
「私、遠野くんの様子が気になって。仕事も手につかないというか、上の空になっていることがあるし」
「……うん」
「悩みかなって思って聞いてみたんですが、同僚には話しにくいみたいで。確かに私だったら、自分の仕事手伝ってもらった上に悩み事の相談なんてできないなって思いまして……その」
「僕が話を聞いた方がいいのかな」
「……ご迷惑でしょうか」
安達はすがるような目で僕を見てくる。
迷惑なんかではないが、果たして彼が僕なんかに悩みを打ち明けるだろうか。上司として無理矢理、打ち明けさせることもできるがそれはあまりしたくない。
安達には一応「聞いてみるよ」とだけ答えておいた。
彼女を先に戻し、下手に探られないように僕は間を置くために休憩所の自販機へ向かった。
遠野と話をした方がいいのは明らかだった。解決するかどうかは別として。
それにしても、今までは夜の仕事があったとしても、会社でその疲れを見せたり、失敗したりすることはなかった。
不意に春也が言っていたことを思い出す。
春也と僕が再び一緒に暮らし始めたことを遠野が快く思っていないと言う話だった。
確かに打ち明けたタイミングは一致するが偶然だろう。
そもそも、そんなことくらいで仕事に支障が出るとは思えない。仮に僕にそういう思いを抱いていたとして、遠野ほどのスペックならばさっさと次に乗り換えられるはずだ。
遠野が僕を好きだなんて、そんなことあるはずもない。
だが、最近「柏原さん」ではなく「部長」という呼ばれ方に戻ったことは気になっていた。
周りは気づいていないが、僕はその変化を寂しく感じている。僕を名字で呼ぶのが遠野だけ、というわけではないが、彼から呼ばれると特別な感じがしていた。
だから、部長と呼ばれるのは物足りない。
いっそ買えばいいのかと思ったが、なかなか春也の外泊と僕の予定が合わない。春也は「言えば他に泊まる」と言ってくれたが、遠野も一応デリヘルである以上、そのために同居人を追い払うのは気が引けた。
遠野もホテルよりは部屋に来たいみたいだったし。
だから確かに最近は呼んでいないが、まさかそんなことくらいで。他にもっと理由があるはずだ。それを聞き出さなければならない。
時計を見て事務所に戻った。
「遠野」
こっちを向いた遠野に手招きする。
何か言いたそうな遠野を待たずに先に廊下に出た。遠野が出てきて扉を閉めたのを確認してから「相談なんだけど」と切り出す。
「相談、ですか」
遠野は明らかに顔色がよくない。寝ていないのかクマも目の下に張り付けている。頬には髭の剃り残しがあり、なまじ顔がいいだけにやたらくくたびれて見えた。
「もう少し仕事を減らそうか」
「っどうしてですか。俺、遅れは出していません」
遠野が半ば叫ぶように訴えてきた。
一度任された仕事を取り上げられるのは屈辱なのだろう。だが、それならば代わりを用意してもらわなければならない。
「遠野。本業が疎かになるようなら、あのことについて考え直さなくちゃならないよ」
「……え」
気色ばんでいた遠野の顔が一瞬で青ざめる。
「ま、待ってください」
「辞められない理由があるのは聞いていたけど、この調子ならその理由がなんであれ、辞めてもらわなくちゃならない」
遠野はうわ言のように「待ってください」と呟き、片手で顔を覆ってうつむいた。
「副業は、関係ないんです。今は、その、集中できなくて」
「どうして?」
借金の返済がつらくて。妹の具合が悪くて。
そう言ってもらえたらすぐにでも「力になるよ」と言ってあげられる。
それなのに遠野は黙りこむ。
何でも言ってほしい。できることなら何でもしてあげたいと思っている。
僕が弱っていた時、遠野は一番欲しかった言葉をくれた。味方を得たようで心強かった。
でも僕は遠野にとってそういう存在にはなれないのだろうか。
悩みをはぐらかして、ひとつもちゃんと教えてもらえない。
本当に春也は悪魔みたいな囁きをする。
こんなに信用されていないのに遠野が僕に好意を抱いているわけがなかった。
「……金蔓には、言いたくないのかな」
そう呟くと遠野が勢いよく顔を上げた。
「っ金蔓だなんて思ってません!」
それは本当のことのように聞こえて胸が痛い。
「俺はただ……あなたに、失望してほしくなくて」
「どうして?」
「それは……い、言えません」
また遠野はうつむく。
言えないと彼に言われるたび「信用していない」と言われている気がする。そんなことで今さら、感傷的になりはしないけど、客としてならまだしも上司として話をしているのにも関わらず、こうも頑なに拒絶されると自信をなくす。
遠野はこのまま順調に行けば僕より出世するだろう。元の部署から総務に一度移動になるのはこの会社での出世前の儀式のようなものだった。
所詮、僕らは上司と部下としては浅い関係だ。
後々出世が待っている遠野にとって、僕は通過点かなにかなのだろう。
あの仕事も暇潰しかもしれない。今だって、何を悩んでいるのか知らないが、自分で解決できるから僕なんかには相談しないのかもしれない。彼が言う通り、仕事に遅れは出ていないわけだし。
多少、寝不足に見えようが、髭の剃り残しがあろうが、僕なんかが気にするようなことではないのかもしれない。
でも、せめて隣の席の安達くらいにはちゃんと説明した方がいい。普段ならあり得ない形で仕事が回された彼女なら理由を聞く権利もある。
金蔓同然の僕とは違って。
「……今後、遅れが出たらあのことは報告するよ」
覚悟していたのか遠野は黙って聞いている。
「一応、報告前には君にも相談するし、前の上司から勤務態度を聞いて似たような事案がなかったかとか話すことになると思うけど」
そんなことするかどうかわからない。軽い脅しのつもりだった。元々は経理部にいたから、出世するならそこの上役を狙っているはずだ。その時に今の上役たちの耳にに自分の悪い話は入れたくないだろう。
それに経理部の部長はあの寺岡だ。遠野だって寺岡がどんな男か知らないわけではないだろう。重箱の隅をつついて喜ぶような男にこんな話は聞かせたくないはずだ。
姑息かもしれないが今聞いておかないと後々庇うこともできなくなる気がした。
「遠野、わかってる?」
返事をしない遠野に詰め寄った瞬間、威嚇する猫のように背中を丸めた。
あっと思った時には、遠野自身、驚いたように目を見開き口を手で押さえた。そして、その指の隙間から吹き出すように液状の吐瀉物が漏れる。
「ぉえっ、う……っ」
びしゃびしゃと嘔吐しながら、しゃがみこんで何度も苦し気にえずく遠野に一瞬頭が真っ白になった。
僕は慌てて事務所に呼びかけ、救急車を手配させた。
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