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「唯が生まれたんだから、上の子は返してきてもいいんじゃないの?」  祖母は家に遊びに来るたびにそう言って俺を疎ましげに睨んだ。 「母さん。やめてちょうだい」 「だけどいらないでしょ」 「自分の子をいらないなんて思わないわ。私も夏弘(なつひろ)さんも」  母はそう言って俺を庇ってくれた。  病がちな父も俺のことを愛していてくれたように思う。  施設で育った俺は、子宝に恵まれなかった遠野家に養子として迎えられた。  だが、家に来て二年ほどで唯が生まれた。  天使のようにかわいい妹。よく泣き、よく笑う。働く母の負担にならないように家にいる間はできる限り妹の世話をした。  友だちとサッカーをしたくても家に帰った。遊びに出掛けたくても、夕食の用意をする母の邪魔にならないように唯をあやす。  苦痛ではなかった。  唯は本当に天使みたいだった。目がくりっとしてまつげが長く、父に似て色白で髪もふわふわの茶髪だった。  俺にとって世界一かわいいのは妹だ。そして祖母のことは大嫌いだった。家に来てほしくなくて蛇のおもちゃで脅かそうとしたら、父にバレて怒られたこともある。  体が弱かった父も祖母から冷たくされていたが、うまく折り合いをつけて生活していた。 「あの人のことはパパだって苦手だけど、意地悪したら進一もバァバと一緒だぞ」  あの人と一緒という脅しは幼い俺には十分な効果があり、父同じように俺も折り合いをつけようと頑張るようになった。  そんな風に月日が過ぎ、唯が二歳になる頃。父は病気をこじらせてしまい、家にいるより病院で寝ていることの方が多くなってしまった。  俺と唯はやむなく祖母の家に預けられた。  両親とも悩んだようだが、父は俺と同じで施設で育ったため頼る親がいない。そうなると、どうしてもあの人を頼るしかなかった。  鬼ババから唯を守らなくちゃ。  初日はそう意気込んでいたが、一日が終わる頃に俺はとんでもない勘違いをしていたことに気づく。  祖母が嫌いなのは俺だけだった。  唯には優しく話しかけ、おやつを出し、粗相をしても怒らないが、俺は言いつけられた仕事のひとつでも忘れると定規で爪先を叩かれたり、食事を抜かれたりした。そして降ってくる罵詈雑言。  夜は母と家に帰ることもあったが、看病で疲弊している母に愚痴は言えなかった。  そんな毎日でも、唯は変わらずにかわいらしかった。俺を「にぃ」と呼び、後にくっついてくる。抱っこするとぺったり頬を寄せてきて、唯のおかげで祖母のいじめもたえることができた。  だが、結局、唯が四歳を過ぎるまで祖母と一緒の暮らしが続き、いつの間にか最愛の妹は、叱られて罰を受ける俺より、おやつをくれて、遊んでくれる祖母になつくようになっていた。  父の容態が安定し、家に家族でまた戻るようになっても、唯だけは祖母を恋しがった。  仕方がなく、母は唯と祖母に会いに行くことが増え、俺は学校から戻ると掃除や洗濯をした。そうしておくと母が喜んでくれたし、はぐしてくれた。母とぎゅっと抱き締め合うと嫌なことが吹っ飛ぶほど幸せだった。  父は病状が落ち着いている間は家にいて、仕事をしていた。今思えばプログラマーかなにかだったような気がする。  俺はやることを済ませると、父の部屋で本を読んでいた。  父の部屋には専門書の他に俺のための図鑑や絵本が置いてあり、母がいなくて寂しい時はそこで気持ちを紛れさせていた。父もそんな俺を邪険に扱ったりはせず、休憩ついでにごっこ遊びにつき合ってくれたり、よく飛ぶ紙飛行機を作って近所の公園まで一緒に飛ばしに行ったりしてくれた。  俺は両親の愛情を一度たりとも疑ったことはない。  その頃、祖母は俺のことを「バカ進」と呼んでいて唯がそれを省略し、意味もわからず俺を「にぃ」ではなく「バカ」と呼ぶようになった。流石に母と父が言い直させたが、唯だっていつまでも幼いままじゃない。  唯の大好きな祖母は兄や父が嫌い。  唯が俺と父を邪険にするようになるのにさほど時間はかからなかった。  それでも、唯は母となら話をした。だからかろうじて家族としての形は保たれていた。  唯が小学校に上がり、俺が高校三年の時、また父が倒れた。  入退院を繰り返す日々。徐々に弱っていき、眠っていることの方が多くなり、俺が短大を卒業した年に息を引き取った。 「お兄ちゃんがいるからパパ死んだんでしょ」  葬式の最中に唯がやたら通る声で言った。  母がぎょっとして「唯っ」と声を上げたが、唯は祖母の背に隠れて「お兄ちゃんが悪い」と言って逃げ出した。  俺は居心地が悪くなって父の部屋に行って、そこで泣いた。  その時は本当に自分が悪かったような気がしていた。短大なんかに行かず、父の代わりに働くべきだったのではないかと後悔もした。だけど、俺の進学は両親の願いだった。それを無下にすることは、俺には、どうしてもできなかった。  それでもやはり、俺が働けば父の負担も少なかったのではという思いが消えなかった。  父の部屋には専門書に紛れて、まだ俺のための図鑑や絵本が置いてあり、余計に切なくて俺は本当に目玉が溶け出すくらい泣いていた。  目を覚ますと、白い天井が見えた。腕が鈍く痛い。見ると点滴されている。反対側を見ると窓があった。もう夕方だった。  どうしてここにいるのかわからず、自由に動く方の手で目を擦った。 「……起きた?」  柏原さんの声が聞こえてどきっとする。同時に何で病院にいるのか思い出した。  当たり前だが、個室ではないらしく、仕切りのカーテンを開けて柏原さんが顔を出した。 「あ、あの」  起き上がろうとすると「寝てていいよ」と言われる。 「たぶん、急性胃炎だろうって。今日明日は入院することになるみたいだよ」  仕事が終わっていない。  今すぐにでも帰って片付けなければ流石に間に合わなくなる。胃炎くらいなら、退院もさせてもらえるはずだ。 「あの、俺はもう平気なので」  柏原さんはじっと俺の顔を見つめる。 「な、何ですか」 「僕が帰ったら退院手続きするつもりだよね」  見抜かれて顔を背ける。 「俺のせいで仕事に遅れを出すわけにはいきません……」 「それはそうだけど」  柏原さんの顔を見ることができない。  また背中がゾワゾワして、吐き気が込み上げてくる。  ストロベリーパートナーのせいで仕事に集中できないと思われている。実際、その通りだ。毎週毎週、寺岡に呼び出される。昨日もそうだ。背が切れて血が浮くほど打たれた。その傷がシャツから透けて見えないか、考えるだけで吐き気がした。  吐き気に押されるように涙が滲み視界が歪む。  泣くな泣くなと自分に言い聞かせる。  目をきつく閉じた。 「ねえ、遠野」  柏原さんが小声で俺に呼びかけて来た。  同時に、温かく乾いた手が俺の頬を撫でた。頬から、耳、頭と優しく手が移動する。その手つきは同じベッドの中にいた時と同じで、胸が壊れそうなほど痛くなる。  痛くてつらいのに、振り払えなかった。ずっとそうやって撫でていてほしい。 「僕は君に優しくしたい」  柏原さんが囁く。  目を開け、俺は柏原さんの方を向いた。  そっと俺の涙を拭ってくれた。 「柏原さん……」  久しぶりに声に出してそう呼んだ気がする。  もうこれが最後でもいい。  この人に優しくしてもらえるのが今日で最後だとしても、これ以上迷惑をかけ続けるわけにはいかない。  俺は柏原さんに会社の金を盗んだことを告げた。

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