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 遠野のアパートは想像以上に古く狭かった。それでも、汚ならしく見えないのは物が少なく、掃除が行き届いているからだろう。  ただその物のなさがある種、異常だった。  箪笥代わりらしいクリアケースに私服は上下合わせても三着しかなく、寝間着もない。仕方がなくサイズを確認して足りないものは量販店で買うことにした。  一番場所を取っているのは本なのだが、専門書かと思いきや、なぜか子ども向けの図鑑や絵本ばかりだった。  荷造りをしながら遠野が言ったことを何度も頭の中で繰り返した。 「俺、経理部にいた時……会社の金に手をつけたんです」  信じられなくて病室だということをすっかり忘れて「えっ!」と叫んでしまった。  声をひそめてなぜそんなことをしたのか遠野に確認すると「手術費用が足りなくて」と小さな声で教えてくれた。 「銀行からは限度額まで借りていて、親戚にはどうしても頼れなくて……つい」 「いくら盗ったの?」 「三十万です」  たったの、と言ったら変かもしれないがこの会社に勤めていて三十万程度も貯蓄がない社員がいるとは思わなかった。  遠野の年齢なら当時でも月に二十数万はもらっていたはずだ。 「治療費、そんなにかかるの?」 「唯は遺伝性の免疫不全で保険に入れなくて……入れても、保証範囲が狭かったり、金額に問題があって……」  遠野は両親とも病気で亡くしていると言っていた。妹は未成年のため、親の医療費用も遠野が負担したらしい。そうなると、確かに金銭的に厳しい生活を強いられる。  それでも、三十万くらいどうにかならなかったのだろうか。 「横領した証拠が残らないように、手を尽くしました。金もすぐ返して、帳簿も偽装して……。大本のデータをチェックされない限りは、騙せるはずでした」 「はずって言うのは」 「寺岡部長が、俺がデータを改竄した痕跡を見つけたんです」  遠野の声が重く、暗くなった。  寺岡の性格を知っているだけに、その後の展開は納得のいく胸の悪くなるような流れだった。  まさか寺岡が絡んでくるなんて。いくら横領したからと言って、嫌がらせにデリヘルに無理矢理登録させるなんてどうかしている。  本当に遠野の着服を咎めたり道を正そうというつもりがあるのならこんなことはしない。寺岡はただただ、遠野を辱しめたいだけなのだろう。 「すみませんでした。本当に、すみません……っ」  何度も謝る遠野を放っておけなくて、とりあえず宿泊準備を買って出た。  あんな話を聞いても優しくしたいと思った気持ちは変わっていない。むしろ、増したとも言える。  遠野の限界まで堪えて泣く顔。それを見たのは一度や二度ではない。  遠野の涙を見るたび、助けになりたいと思ってきた。助けたい優しくしたい。遠野ほど魅力的な男ならば僕でなくとも助けたいと思う人はいるだろうが、僕が優しくしたかった。僕にさせてほしかった。  涙を拭うのも、そばにいるのも、僕の役目であってほしかった。  荷物を持って外へ出ようと玄関に下りた時、扉が開いた。 「は?」  若い女の子が立っていた。二十歳くらいだろうか。明るい茶髪で、顔立ちはかわいらしい。  ただ僕を見て「は?」と言った口は曲がり、目つきは世辞にも好感が持てるとは言えないものだった。 「おっさん、誰?」  巻いた髪を指先でいじる。絵に描いたような高圧的な態度。  頭ではこの子が遠野の妹だとわかっているのに、あの遠野に溺愛されて育った病弱な妹と言う事実から僕が想像していた姿とはあまりにもかけ離れていた。  頭が追いつかない。 「ここ、私の家なんだけど」 「あ、えっと。柏原です。君のお兄さんと一緒に仕事をしている……」 「あいつなんかしたの?」  あいつ。  実の兄をあいつ呼ばわりするなんて。それも、自分の病気のために借金までしてくれた兄を。  衝撃で言葉が出なかった。  だって、遠野はこの子のために会社の金に手をつけたようなものだ。かわいい妹を病から守るために、と。  それなのに、彼女のこの態度はどういうことなのだろうか。 「き、君のお兄さん、入院することになってしまって、着替えを取りに」 「どうでもいいし、っていうか兄じゃないし」 「え?」 「血繋がってないもん」  ツンとした態度でそう言って、僕が黙っているとさらに続けた。 「あいつが来たせいでただでさえ穀潰しだったパパが弱っちゃって。ママも看病とか仕事で疲れてたのに、あいつの分まで飯作らされてさあ。他人の癖に家族面して家に居座るんだよ。ほんと、厚かましいヤツ」  何を聞かされているのか最初わからなかった。 「もういないけど、ばぁばは反対したんだって。養子なんかもらったら本当の子どもが弱るからって。でも、パパが捨て子だったから、かわいそがって捨て子のあいつをもらったんだって」  辛辣な彼女の言葉は凶器のようだった。 「パパは病気ばっかりしてて、ばぁばはだから捨てられたって言ってた。穀潰しになるのがわかってたから捨てたんだって。ばぁば大正解じゃない?」  よく整った顔で、実の父親を穀潰しと呼び、顔色ひとつ変えない。 「あいつも、人を不幸にする疫病神だから親に捨てられたんだよ。パパが最初に餌食になって、次はママ。私のことは殺し損なったみたいだけどさ」 「ちょ、ちょっと待って。君の手術費用は遠野が工面したんだよね? それなのに」 「は? あいつが手術費用出すのは当たり前じゃん。あいつのせいで私ばっかり病気なんだから」  きっぱり言い切ってこっちを睨み付けてくる。  言葉が出なかった。息が苦しい。喉を締め上げられるようだった。  遠野が親戚に頼れないと言うのは、こういうことだったのか。  ばぁば、と言うのは話を聞く限り母方の祖母のことだろう。  遠野は妹が遺伝性の免疫不全だと言っていた。だから、保険も難しかったのだと。  つまりは、祖母の言っていることはどう考えてもただの言いがかりだ。彼女の病気は生まれつきのもので、至極当然なことだが、遠野が疫病神だからではない。  そのことにこの子は気づいていないのだろうか。 「悪いけど、何をしに来たか聞いてもいい?」 「あんたに関係ないでしょ」 「話してくれるまでどかない」  自分でも子どもっぽいなと思っていたら「はあ? ガキかよ」と彼女も悪態をついた。 「……ここにはお金取りに来たの。友達とホテルのブッフェ行くから」  渋々教えてくれたが、悪びれた様子もなく、当然のように言い放つ。 「これでいい?」  愛らしい顔が悪魔に見えた。  これが本当に、あの遠野の妹?  遠野が身を粉にして働く理由が、この子。借金の理由も、横領も、不本意なデリヘルだって。  信じられなかった。  初めて遠野を買った日に連れていった店で、ステーキを美味しそうに食べる姿を思い出した。ずっと食べたかったと言っていた。  寺岡に搾取され、銀行に借金を返済する。古くて狭い、風呂もトイレもないような部屋に住み、妹のために働き、自分の服は最低限しか持たず、食べたいものもすら自由にできず……。 「いい加減、邪魔なんだけど」  僕を押し退け、部屋に入る彼女。  何をどう言えばいいのかわからず、部屋を出た。扉は重みで勝手に閉まったが、薄い壁は遠野の妹の声を遮断しきれなかった。 「足りないじゃん! 何なのあいつっ!」  甲高い叫びには、兄への感謝など一片も含まれていない。  遠野は養子。そして両親はどうかわからないが、少なくとも妹と祖母からは疎まれて育った。両親亡き今、親族を頼れないと言うのは、母方の祖母の影響が強いからだろうか。現に、妹は兄を毛嫌いしている。当たり前のように遊ぶ金を兄から取ろうとしている。  信じられなかった。  とにかく、この場を離れたくて車に乗り込み、入院に必要なものを買うことにした。それでも、ふとすると、かわいい顔に嫌悪を滲ませながら怒濤のように兄への鬱憤を撒き散らす遠野の妹のことを思いだし、胸が押し潰されそうになる。  買い物をすませ、面会時間ぎりぎりに病院に戻った。  遠野は点滴が終わり、寝ていた。  閉じているまぶたが痛々しいほど腫れぼったい。  カーテンを閉じて、荷物を置き、椅子に座る。  廊下で吐いて倒れられた時は本当に怖かった。  彼がそこまでの悩みを抱えていたなんて思いもしなかったからだ。  僕だったら、堪えきれない。  実際、家族と向き合うこともせず勘当されたまま、家には戻っていないし、連絡も取っていない。  僕は「勘当された」が、結局は柵から逃げただけだ。食らいつこうと思えばできたはず。それをしなかった。できないと決めつけて僕はやらなかった。  傷つくのが怖くて……。  でも、遠野は違う。どんなに傷ついても、傷つけられても妹の手を離さなかった。 「……ねえ」  寝ている遠野に声をかける。  起きている時には言えないけど、好きなんだよ、と頭の中で言った。言いながら頬を撫でて、そこにキスをする。  柔らかい体温を唇に感じて、息がつまる。 「僕に……話してくれて、ありがとう」  それだけ伝えて、病院を後にした。  一本電話を入れてから、その足で会社に戻った。

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