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 こんなに憂鬱な月曜日は初めてだった。スマホには俺の連絡先を知る同僚たちからの体調を心配するメールや電話があったが、返事をする気になれなかった。  その連絡の中に唯からのものがあった。どうやら、用意しておいた小遣いでは足りなかったらしく「恥をかいた」と怒りのメールが届いていた。  大学生になり、唯は熱を出すことも減って友だちと上手く行っているようだった。  唯にだけ謝罪を送り、他はそのままだ。  何とか支度をしてアパートを出る。  一泊だが入院して、体調は元通りになった。ただ、医者曰く今回の症状はストレスが要因でそれを根本からどうにかしない限り、今後も似たようなことが起きると脅された。そんなこと言われてももうどうしようもない。  昨日はゲロまみれのスーツをクリーニングに出し、柏原さんが紙袋に用意してくれた入院セットを持ち帰った。  紙袋には真新しいパジャマが入っていたが、貰うのは気が引けた。服のサイズは柏原さんと同じだし、今日の帰りにコインランドリーで洗ったら明日には返すつもりでいた。  あの時、横領したという俺の告白を聞いて柏原さんは動転していた。当たり前だ。  あんなに慌てたあの人は見たことがなかった。  結局、一昨日は今後のことを話し合うこともなく、柏原さんは荷物だけ届けて帰ってしまった。  何故かというと、寝不足のせいかそれとも薬なのかで俺が爆睡してしまい、柏原さんが荷物を持ってきてくれていたことに気づけなかった。  柏原さんに荷物を取りに行かせておいて、ぐうぐう寝ていたなんて最悪だ。自分の馬鹿さ加減にあきれる。本当なら病院まで付き添う必要だってなかったはずなのに。  柏原さんは俺に優しくしたいと言ってくれた。  たったそれだけ。うまくなだめすかされて、馬鹿みたいに素直にしゃべってしまった。柏原さんだって、俺の悩みがまさか、横領してその事実を知った上司から脅されていることだなんて、想像していなかっただろう。  だが、しゃべらされてしまったことを今さら後悔してもしかたがない。  会社も休めない。ただでさえ片付けなければならない書類があるのに土曜を潰してしまった。柏原さんが横領の件を保留にしてくれたとしても、業務が減るわけではない。  ただ、ぼんやりと頭にあるのは、横領が会社に知られたなら、少なくとも寺岡のところに行く必要はなくなると言うことだ。  ゲイ向けのデリヘルに俺がいることは脅しにはならない。ストロベリーパートナーは完全に男性の同性愛者向けの風俗店で、そんなサイトを見ていたと知られれば、寺岡自身がホモと見下していた人たちと同類と見なされるからだ。  もし、会社に知られたなら今日にでもあの店を辞められる。それだけが、救いだった。  辞めれば柏原さんに買われることはなくなるが、洗ってもいないようなペニスを舐めなくてすむ。打たれることもないし、病気に怯えたり、下痢や痔に悩まされることもなくなる。  そもそも、春也とか言う男と再び暮らし始めた段階で、俺なんかが柏原さんに買ってもらえる可能性は限りなくゼロに近かった。  肩の荷が降りたと思えばいい。  もう隠し事はなしだ。  そう思うのにずきずきと胸が痛い。  会社に足を踏み入れる。横領が知られたら社内はどうなっているのか。そんなことを考えたが、普段と変わらない。事務所に入ってもいつも通りで、二、三人から体調を心配されただけだった。 「急いで退院しなくてもよかったのに」  安達がマイボトルでなにか飲みながら言った。 「それとも、週末は社員旅行だから無理して来たとか?」 「週末? 今週末だっけ……」  すっかり忘れていたと言ったら安達が目を丸くして驚いていた。うちの会社の社員旅行は毎年好評で、楽しみにしている社員も多い。  俺は、行ったことがない。どうしても、そんなことに金を使う気になれなかった。  デスクの上を片付け、資料のチェックをしながら柏原さんのデスクを見る。鞄はあるのだが、本人がいない。  どこへ行っているのか気になって、スケジュールが書かれたホワイトボードを見に行った。そこに書かれていた予定を読み上げる。 「……緊急会議」  口にしてみて、胃が気持ち悪くなる。  俺のことで会議が開かれたのだろうか。  吐き気と一緒に唾を飲み込み、デスクに戻った。  覚悟していたはずなのに、実際に起きると不安しかない。  柏原さんに知られただけなら、ストロベリーパートナーを辞められると思ったが、会社に知られたとなれば、クビにされる可能性が出てくる。  そうなれば、再就職は難しい。  横領犯を雇おうなんてまともな会社はないだろうから、すぐには仕事につけない。デリヘルを辞めたら収入がゼロになる。それだけは避けたかった。  つまりクビにされたら、食うために足を開く生活が続く。  そんなの嫌だ。  でも、だからって俺にはどうしようもない。  柏原さんに「黙っていて」と泣いて懇願すればよかったのかもしれない。そしたらきっと秘密にしてくれた。困った感じに笑って「わかった」と言ってくれただろう。  だけどそれは、彼を共犯にすることと同じだ。  共犯にはしたくない。  そもそも今さらああすれば、こうすればと考えても遅い。憎むべきは優しいあの人に惚れた自分だ。惚れた段階でこうなると決まっていた。  俺じゃあの人には釣り合わない。  同じベッドで寝起きするなんて俺には過ぎた幸せだった。身の丈に合わない幸せだった。  不意に、廊下から甲高い叫び声が聞こえた。  何事かと事務所が騒がしくなり、数人が飛び出す。そしてすぐに戻ってきたやつが野次馬根性丸出しで「部長が殴られた!」と興奮した様子で告げてきた。  安達が「えっ」と口を押さえる。  俺は反射的に立ち上がって廊下に飛び出した。  廊下はすでに人だかりが出来ていて、人の肩越しに会議室の外で柏原さんが頬を押さえているのが見えた。  そして、その向かいにいる男を見て心臓が止まりかける。  グレーの安っぽいスーツに似合わないブランドネクタイと言うちぐはぐな格好。脂で光る薄い七三の痩せた男、寺岡だった。  状況から見て、寺岡が柏原さんを殴ったらしい。 「お前! どういうつもりだっ」  細い肩を怒らせ、寺岡が怒鳴る。  柏原さんは「急になんですか」と切り返す。  寺岡は顔を真っ赤にして柏原さんに詰め寄り、胸ぐらを掴んだ。 「会社に来た途端、謹慎処分だと? あり得るかっ? なあ?」 「何の話ですか」  柏原さんは少しもうろたえていない。口角は腫れて痛そうだが、顔色を変えずに毅然として寺岡の手を振り払う。 「てめぇが金の話チクったんだろっ?」  金の話。やはり、横領がバレたのだろうか。  いや、それなら謹慎は俺のはず。どうして寺岡が柏原さん相手に怒り狂っているのかわからない。 「止めてください」 「ふざけるな! ふざけるな! お前、あいつから聞いたんだろうがっ!」  寺岡が声を裏返しながら叫んだ。 「あいつ?」 「とぼけてんじゃねえよ、ホモ野郎!」  寺岡の怒鳴り声でさっと柏原さんの顔色が変わった。  あいつというのは、俺のことだろう。背中がひやりとする。 「な、に」 「ホモって言ったんだよ」  周りの野次馬がひそひそし始める。  柏原さんはそんな外野を見て、寺岡に向き直ったがその顔からは完全に生気が抜けていた。その反応に手応えを感じたらしい寺岡が額に汗を浮かべながら、不気味にニヤリと笑う。 「お前がゲイバーで男引っかけてんのは知ってんだよ。今度は会社で男漁りか? どうなんだよっ」  指をさし寺岡が詰め寄る。  柏原さんは今にも死んでしまいそうなほど真っ青になっていた。  ゲイだということは、柏原さんにとって何より隠したいことのはず。それこそ、深い関係にあった恋人と別れるほど。  それをこんな人前でベラベラとしゃべる寺岡。  最悪だ。  まるで人の心を持たない寺岡は、柏原さんが黙ったことで勝利を確信したのか、目を異様に輝かせていた。 「あいつのケツの味はどうだった? それとも竿の世話になったのか?」  下卑た寺岡の笑い。人を蔑むことで優越感を覚えるクズ野郎。  寺岡の台詞に静まり返る外野。その視線から逃げるように柏原さんはうつむき、身を縮こまらせる。  次々と詰る言葉が溢れてくる寺岡の曲がった口元。あの目。視線。  俺は周りの人を押し退け、二人に近づいた。  寺岡が近づいてくる俺に気づき、ヘラヘラと「こっ、ここにもホモ野郎がいたぞ!」と異様なほど大声を出した。  柏原さんが俺を見た。不安そう、なんて生易しいものではない。いつも穏やかに微笑んでいた柏原さんの顔にははっきりとした恐怖や怯えが張りついていた。  俺がこの人を巻き込んだ。その責任を取らなければならない。  寺岡に向き直る。 「なんだ、その目はっ。ここでお前の秘密もバラしてやろうか?」  唾を飛ばしながら威嚇してくる。  一瞬、この後のことを考えた。だが、もう構わない。  何を失っても構わない。  拳を握り、口を開いた。 「俺は、会社の金に手をつけたし、デリヘルで働いてる」  俺がそう言うと寺岡の笑みが凍りついた。  特段、声を張り上げたわけじゃないが、やたら静かな廊下では十分な声音のはずだ。 「あんたが言う通りホモだし、柏原部長が好きだ」  周りが徐々にざわめき始める。「嘘だ」とか「冗談でしょ」と言う声がする。浴びせられる視線は冷たく、嫌悪すら感じた。  それを浴びるのは俺でいい。柏原さんは関係ない。 「そ、そんなので庇ってるつもりか」  俺は寺岡の胸ぐらを掴む。 「俺が一方的に好意を抱いてるだけだ。あんたの金の話なんて知らないが、この人に八つ当たりするなら絶対に許さない」  寺岡は未だにへらへら笑っていたが、その目は明らかにうろたえて右へ左へ世話しなく動いている。 「か、会社にいられなくなるのは、お前も同じだろうがっ」  寺岡が叫んだ時、やっと警備の人がエレベーターであがってきた。  俺が手を放すと寺岡は警備の人を押し退けて閉まりかけたエレベーターに無理矢理乗って逃げていった。  警備の二人組は、逃げた寺岡より胸ぐらを掴んでいた俺から事情を聞きたいらしく「いいかな」と有無を言わさぬ雰囲気で詰め寄ってきた。  横領がバレたうえに、問題を起こした。クビは確定だな、なんてぼんやり思っていると警備員と俺の間に柏原さんが入ってきた。 「もう済んだので大丈夫です」 「ですが」  不意に手を叩く音がした。 「はい、終了、終了」  しゃがれ声が階段の方から聞こえた。  その方を見ると白髪頭をオールバックにした男がいた。 「せ、瀬川専務……」  柏原さんがつぶやく。  瀬川専務は「持ち場に戻っていいよ」と警備を追い払い、周りの取り巻きにも「解散解散!」と声を上げた。  そして残った俺たち二人を睨み付ける。背は低いが眼光の鋭い人だ。 「ことの発端はどっちだ」 「私です」 「俺です」  声が被り、柏原さんと顔を見合わせる。  瀬川専務がため息をついた。 「……それで、怪我したのはお前だけか?」 「はい」 「お前のおかげで寺岡の横領が発覚した。まあ、告発内容はモラハラだったがな」  腕を組み、瀬川専務が軽く笑った。 「普通、外の部署からの告発は受けないが、元々、寺岡に関しては問題視されていたからな。今回はむしろ、お前の告発が後押しになって調査に至ったわけだ。それにしても、横領の手口の杜撰さにはあきれたぞ」  今度はじろりと俺の方を見た。 「横領と言えば、そうだ。聞いていたが、寺岡に言ったことは本当か?」 「……申し訳ありません」  頭を下げる。  瀬川専務はしばらく黙っていたが、ややすると「顔を上げろ」と言った。  俺が顔をあげると、瀬川専務とまっすぐ目が合う。 「お前が横領した痕跡はなかった」 「いえ、俺は」 「私が今、なかったと言ったんだ。それとも、寺岡同様、謹慎の後、解雇通告を受けたいのか?」  何を言われているのかわからず、返事に迷う。  瀬川専務は俺が返事をしないうちに話を重ねた。 「……副業についてだが、本業に障りが出たとの報告がある。本日中に退職すれば、咎めはなしとするが、構わないな」 「その件に関しましては私が責任を持ちます」  柏原さんが言うと、瀬川専務は「仕事に戻れ」と言ってツカツカと音を立てながら、階段に向かうとそのまま振り向かずに上がっていった。  未だに何が起きたのかわからず、呆然と専務が去っていった方を見ていると柏原さんが「ねえ」と呼びかけてくる。 「さっきの、本当?」 「さっきのって何ですか。横領もデリヘルも柏原さんには言ってあ……」  そこまで口にして、さっきまでの出来事を頭の中で整理がつく。そして、自分がとんでもないことを口走ったことに気づいた。 「あ、あれは」  咄嗟に顔を下に向けた。うなじが熱くなる。  ずっと口にせずにいた気持ちをついしゃべってしまった。  柏原さんにとって、俺は理想の恋人を演じるデリヘルでしかないはず。そう頭ではわかっていたが、気持ちはどうすることもできなかった。  告白なんて厄介に思われただろうか。  いや、でも、ひょっとしたら柏原さんだって、俺と同じ気持ちなんじゃないのか。  時間外でも優しくしてくれる。優しくさせてほしいと言われた。そんなこと普通は言わない。何とも思ってない相手にそんなこと言うわけがない。  だから、もしかして。 「庇ってくれてありがとう」  柏原さんが俺の肩を軽く叩く。  俺が顔を上げると、安心したように微笑んでいた。  それだけだ。 「助かったよ」  そう言って「戻ろうか」と促された。 「え」 「仕事だよ」 「あ、は、はい……」  告白に対して返事がもらえないまま、事務所に戻った。事件の当事者二人がいる部屋の空気は重く、息苦しく、誰も面と向かって何かを聞いてくることはなかった。  柏原さんは事務所に戻った後、少しして席を空けて、頬に冷却シートを貼って戻って来た。  返事をもらえなかったことを午前中いっぱい悩んだが、マイノリティを隠したい柏原さんが会社で返事をしてくれるわけがない。それが、好意的なら尚更だ。  大丈夫。根拠のない自信で自分を奮い立たせる。  そして何より俺を元気付けてくれたのは安達だった。驚くくらいいつも通りだったおかげで、事務所内の重苦しい雰囲気も午後にはなくなっていた。  昼休みに安達から一言だけ「苦労人だね」と言われ「少しな」と返した。  俺の気持ちと同じように柏原さんがなってくれたら、俺の今までの苦労が報われる気がした。

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