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薄曇りだが、雨の気配はない。
風も冷たすぎず、行楽日和と言っていいだろう。
車内の空調もちょうどよく、隣に座った安達は静かに旅行先のパンフレットを読んでいる。
あっという間にこの日になってしまった。最初は来るつもりなんてなかったのに、安達に強く言われて滑り込みで社員旅行に参加することになった。
ぼうっと外を眺めていると急に目の前にマイクを差し出されドキッとする。
「ね、歌って歌って」
秘書部の子たちだった。
前に俺を食事に誘ってきた田口は今回、旅行には来ていない。
その田口の噂を拾ってきた安達が言うには、かなり手酷くあちこちで俺を罵っているらしい。でも正直、どうでもいい。別に、そんな話聞きたくなかった、というほど田口に対して不快に思っていたわけでもなく、本当にどうでもよかった。今さら、噂を一つ一つ気にするなんて馬鹿らしいし疲れる。
そして当たり前だが、ゲイだと公表してから女性からの誘いはぱったりとなくなった。これは怪我の功名だ。
差し出されたマイクに戸惑っていると、今まで静かだった安達が「聞きたい!」とパンフレットを閉じる。
バスは基本的に同年代で組みになる。細かい取り決めはなく、幹事に報告さえすれば好きなバスに乗車できた。
このバスは総務と秘書、それから営業の中堅的年代が乗り込んでいる。
とりあえずマイクを握ったが、歌なんてよく知らない。店内BGMくらいだ。
後は……。
柏原さんと一緒に見た映画のエンディング曲。柏原さんがその歌を気に入って、CDを買って部屋で流していた。
少し考えてから、秘書の子にその曲を頼んで入れてもらう。
イントロが始まると後ろの座席から「よ! 女泣かせ!」と変な掛け声がかかる。
車内がざわつく。
「ホモなんだから、女惚れさすなよ!」
「おい、やめろよ」
俺は何も言ってないのに後ろの方で揉める気配を感じて、マイクの電源を入れた。
『そのホモに負けねえように男磨けよ』
マイクを通して言い返すと隣で安達が「男前!」と声を上げ、秘書部の子たちが黄色い声を出す。そのお陰か、とにかく幸いなことに後ろの座席で笑いが起き、険悪な雰囲気にはならずにすんだ。
歌いながら、俺には安達がいてよかったなと思う。
知り合って一年も経っていないし、プライベートで特別親しくしているわけでもないが、距離感がちょうどいいし、よくも悪くもマイペースで空気感とか、周りの反応などは気にしない。
歌い終わり、拍手の中、マイクを安達に渡す。安達は歌を決めていたらしく、すぐにイントロが始まった。
公の場でカミングアウトした形になった俺としては、自分の価値観を押しつけてきたり変にすり寄ってきたり、または敬遠したりしない安達に心底ほっとしている。
あの事件以来、社内で変に気遣われていたたまれない。あんなに気にしていた横領に関しては『寺岡に濡れ衣を着せられたに違いない』と思われているらしく、デリヘルに関してはカミングアウトの印象にかき消されているようだった。
総務内での話に限られるが、そんな風に噂に尾ひれがつかなかったのは、安達の安定性のおかげと言える。
柏原さんにもこんな相手がいたら、コンプレックスを抱かずにすんだのだろうか。
あの事件以来、部長に避けられている。
まず、目が合わない。
仕事の話はするが、それ以外は「今、忙しいから」とか「後でもいい?」と言われて何となく断られる。電話にも出てもらえなかった。
それらが、あのカミングアウトのせいかも知れないと思ったのが、昨日の夜だった。
それまで偶然だとか間が悪いだけだとか、自分に都合のいい理由をつけて現実を見ないようにしていたが、この旅行を明日に控えた瞬間、ああ多分、振られたんだろうなという、漠然とした考えに至った。
その理由は、と考えた時、思い当たるのがあの日のカミングアウトと告白だ。
俺は、柏原さんに一度「ノンケ」だとはっきり伝えてある。実際、たぶん、俺は本来は異性愛者のはずだ。
好きだと言ってきた女性とつき合ったこともあるし、セックスだってした。
女性とのそういう行為に違和感はなかったが、ただ、恋愛感情が伴ったことはない。
そして、ストロベリーパートナーで働いて女性とのセックスに魅力を感じることもなくなった。いや、正しくはセックスそのものに。
男性を好きになったり、男体に興奮したりするわけじゃない。
柏原さんに買われるまで、抱きたいとか抱かれたいとか、そんな考えはすっかり消えていた。
これはつまり、男が好きなわけじゃなく、ただ、単純に、あの絶望的な環境に偶然差し込んだ柔らかな光みたいな柏原さんの存在に恋をしただけなんだろう。
間の悪い初恋だ。
ゲイだと知られたくない柏原さんは、公の場でカミングアウトした挙げ句に告白してきた俺を多分、拒絶するしか選択肢になったんだろう。
認めてもらえるから大丈夫、という考えはできない人だ。どれだけ大丈夫だと言っても、あの人は、もし認められなかったら……しか考えられない。
地元でどれ程、酷い仕打ちを受けたのか俺にはわからないが、好きだというこの気持ちを認めてほしいからと言って無理矢理、柏原さんの領域に入ることはできない。
あの人は、敵から身を守るために甲羅に隠れる亀に似ている。甲羅に隠れる亀を、卑怯だとか臆病だとか思う人はいないだろう。必要だからそうしているだけだ。
それなのに寺岡の一件で、柏原さんは甲羅に隠れずに戦ってくれた。どんな形でも告発すれば、俺との繋がりは寺岡の性格を考えたら察知されてもおかしくない。そういう危険を犯してまで、俺を助けようとしてくれた。
それで十分なんじゃないか。俺のために柏原さんが戦ってくれた。それだけで……。
いつの間にか眠っていたらしく、パーキングエリアで安達に起こされた。
「休憩だって。三十分くらい」
「そう」
安達はそれだけ伝えると財布を持ってバスから降りた。
俺は自分の上着をかけ直し、静かな車内でもう一眠りしようと目を閉じた。
うとうとしていると、思っていたより早く安達が戻って来たようで近づいてくる人の気配を感じた。
だが、隣に座る様子はない。
何となく視線を感じる。
俺の寝顔なんか盗み見るなんて、安達らしくないななんて思っているうちに眠気が覚める。
そして、頬に触れられた瞬間、目を開けた。
「あ、ごめん」
柏原さんだった。黒いポロシャツと形のきれいなズボンがよく似合っている。
謝られて反射的に「いえ」と返す。胸が苦しい。
でも、顔を触るなんて、振った相手に対してちょっと馴れ馴れしくしすぎじゃないか。もやもやしながら、どうしたのか尋ねた。
柏原さんは引っ込めた手を腰に当てる。
「君が旅行に参加することにしたって聞いて、ちょっと安心したと言うか……」
「安心って、どういう意味ですか。借金のことですか」
重ねて尋ねると、慌てた感じで「そういうわけじゃないよ」と言われた。
「ただ、その……」
「その、なんですか。ちゃんと返済していますし、変な心配しないでください」
意識したわけじゃないが、棘のある言い方になってしまった。
柏原さんは「ごめん」と謝ると、そのままバスを降りてしまった。
自分のせいなのに、柏原さんが出ていってしまったことに腹が立った。でもすぐに、腹の奥に重苦しい寂しさを感じた。
あんな言い方をすれば空気が悪くなる。当たり前だ。もう少しどうにかできなかったのか自分を恨む。
仕事以外でせっかく柏原さんが話しかけてくれたのに、俺は馬鹿だ。
菓子を買って帰ってきた安達は、自己嫌悪でいらいらしている俺に気がついたのか、それともマイペースだからか、ひとりで買ってきたチョコを食べ始めた。
車内にふわりと漂う甘いにおいを嗅ぎながら、柏原さんが何を言いたかったのか考える。
旅行に来て安心した、と言うのは、旅行に来るくらいの金銭的な余裕があるみたいでよかった、以外の解釈があるだろうか。
横領した手前、金遣いの計画性を問われるとつらいものがあるのは事実だが、柏原さんには信用していてほしかった。金の心配をされるとイライラするのは、あからさまに信用ならないと言われている気がするから。
自分の最低なところを小突き回されている気分になる。決してそんな気持ちじゃないのはわかっているのに、ついむきになって馬鹿みたいだった。
「……俺もそれもらっていい?」
「いいよ」
安達からもらったチョコは甘いにおいとは裏腹に、渋いほど苦かった。
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