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水族館は季節外れだからか、それなりに空いていて、ぶらぶら回るのにちょうどよかった。安達は魚には興味がないらしく、イルカショーまで売店や併設された遊園地を回ると言っていたので、別行動になる。
観光の時間はたっぷり与えられていて、仲のいいグループになって皆ゆっくり観賞している。
でかい水槽でも、どこでも底の砂の上に小さいエビがいた。紹介のフリップはない。完全な脇役だ。
お前、俺みたいだな。
そんなことを考えながら、世話しなく動き回る名前のわからないエビを見ていたら「一人か」と聞き覚えのある声で話しかけられた。
振り向くと、シャツにスラックス姿の専務がいた。
「え、あ、専務……」
「毎年候補に挙がるせいで、水族館が観光先から外れないが、どこも似たようなものなのに何がいいのかさっぱりわからん」
かなり深いため息をつく。
「魚は見るより食う方が何倍もいいだろうがなあ?」
「魚、お好きなんですか」
「青魚以外な。そのエビなんか、素揚げにしたらビールのあてになりそうだな」
「あ、はは……」
さっきまで感傷に浸っていた自分が馬鹿らしく思えてきた。
「海苔塩がよさそうですね」
専務がちらりと俺を見た。
「その顔を見ると、柏原には振られたか」
ドキッとしてつい、服の裾を掴む。
専務は腕を組み「気にするな」と鼻で笑った。
「あいつは一人が好きなんだろう」
「……まさか」
それが、違うことくらいはわかる。
だが専務は首を振った。
「あれほど人を遠ざけておきながら、一人が嫌だとかほざくような男なら、面倒くさいことこの上ないだろう」
確かに面倒くさい人なのかもしれない。でも多分、俺はそんなところにも惚れていた。どうしようもなく。
専務は咳払いをする。そして言葉を選ぶように言った。
「まあ、関係はどうあれ、柏原にはお前みたいなやつが必要なのかもな」
「……そう言っても、脈はないですよ」
「本当にそうか?」
公然であんな風に告白すれば、柏原さんがどう思っていても関係ない。男同士でつき合うなんてことを知られたくない彼は自分の心の秘匿を優先する。
そうさせたのは俺だ。
俺は柏原さんに俺を振らせたんだ。
「脈はないです」
自分で言っていて、違う気がするから余計につらい。
柏原さんは多分、俺を好きでいてくれた。
でも、ゲイだと知られたくないからつき合うことはできない。同じ会社、同じ部署にいれば隠していても周りに知られるのは時間の問題だ。
寺岡にホモだと罵られて真っ青になっていた柏原さんを思い出すと、胸が苦しくなる。
あの人にとってカミングアウトは何より恐ろしいことなんだろう。
柏原さんを追い詰めてまでつき合いたいとは思わなかった。
だから、振られたと気づいた昨日の夜のうちに身を引くことを決めていて、自分で納得したはずだった。
うとうとしていた時に柏原さんに撫でてもらった頬が、熱を持つ。
どうしてあんな触り方をしたのだろう。
あんな、期待させるみたいな。
専務は俺と別れ、後から来た人たちとすたすた先へ行ってしまった。
イルカショーまではまだ時間がある。
近くの休憩用の長椅子に座り、背もたれに体を預けた。
会社に友人らしい友人はいない。入社当初から俺は本当に仕事人間だったし、必要だと思えば帰りがどんなに遅くなろうとも飲み会にも参加した。出世したかった。金が必要だった。
そんなだから自分の時間を欲しがる同僚とは早々に足並みが揃わなくなった。ただ、それでもいいと思ってきた。
思えばそんな俺に話しかけてくれたのは、安達くらいかもしれない。寺岡が嫉妬した通り、女性受けがいいのは自覚している。だが、そういう下心を相手から感じた段階で俺はもうだめだった。
ストロベリーパートナーで男にセックスを強要された挙げ句、女のように組み敷かれる。そんなことを日々繰り返しているうちに、自慰もしなくなり、女性相手に興奮もしなくなってしまった。
そんな死んだように静かになった性欲が再び目を覚ましたのが、柏原さんに買われた日。あんなにも誰かに抱かれたいと強く願ったことはない。
卑猥な下心なく、優しくしてくれる柏原さんに、俺はどうしようもなく惚れていた。
期待したくない。期待させないでほしい。
薄暗い水族館にため息が吸い込まれる。
安達を探しに行こう。ひとりでいると気が滅入る。
椅子から立ち上がった。
外へ行くには戻った方がいいのか、進んだ方がいいのか看板を探す。そして、看板はすぐに見つかったが、ぎくりとして動けなくなる。
そこに一人立っている。
柏原さんだった。
柏原さんは買い物を終えたのか紙袋を下げていて、標識のところで右と左をキョロキョロ見ては小首を傾げていた。
ひょっとして、順路に迷っているのだろうか。
声をかけるのは憚られたが、あまりにも長く右往左往しているので、見かねて声をかけることにした。
「……どうしました」
言いながら近づくと、柏原さんの肩がビクッと跳ねる。
「び、びっくりした。誰もいないと思ってたのに……」
柏原さんはちょっとほっとした顔になる。
「順路って、どっちなのかわかる?」
「こっちです」
指をさして教える。
「誰かと一緒に回ったりしないんですか」
「うん、まあ、特別に親しい人はいないからね。僕にとって社員旅行は春也から頼まれた買い出しついでの観光、みたいな……」
春也、と聞いてズキズキっと胸が痛んで、それが顔に出たのだろう。柏原さんが「ごめん」と謝った。
「遠野、ごめん」
さっき、あんな風に触ったくせに平気でその名前を出すんだから困る。許したくないのに、何回も謝られたら許したくなる。
会ったこともないのに、こんなに嫌ったのは、俺の人生で春也という男だけだ。浮気したくせに。一度は柏原さんの元を離れていったくせに。いとも簡単にその隣を取り戻した。
ずるい。羨ましい。羨ましくて、死にそうだ。
顔を背けると柏原さんが口を開く。
「……君に、嫌な思いをさせてばかりだね」
そんなことないと否定の言葉が頭をよぎったが、口からは出てこなかった。
「嫌な思いって……なんですか」
「遠野の優しさに甘えて僕がしたこと、全部。あと君を助けたくて上に掛け合ったけど、結局のところ矢面に立たされたのは僕じゃなくて君だった……。そのことも、ごめん」
真っ青になった柏原さんの顔を思い出した。
「あれは、俺がそうしたくてしたんです」
「だけど」
「俺だって好きな人には優しくしたいって思います」
柏原さんが口を閉じた。
俺は顔を背けたまま続けた。
「優しくしたい、力になりたいって思うんです。柏原さんは優しいから、俺みたいな下心はなかったかもしれません。でも、俺は本当に……あなたが、好きで……」
言っていてむなしくなった。
「好きだから、柏原さんの言葉の意味が気になるし、触れられると期待する……。デリヘルの時だって、電話があればあなたかと思って一喜一憂して」
吐いて倒れた。
あの部屋に俺以外の誰かがいる。それだけで、食事もまともにとれなかったし、眠ることもできなかった。
デリヘルの仕事は嫌だった。辞めれば仕事がなくなる。金を工面できなくなる。だから、嫌々男に足を開いたし、汚いものをなめて、痛みにもたえた。罵倒されても何があっても、辞めることができなかった。
死ぬほど嫌だったけど、柏原さんに買われた時間はこの人の恋人になれると思うと、嬉しかった。その日が毎日楽しみになった。
俺の人生の中で何かを楽しみに過ごす時間は、子どもの頃、まだ唯が幼くて両親が健在だったあの頃以来初めてで……。
買われることもなくなるとわかった時の絶望感は今思い出してもぞっとする。今までの生活に戻るだけの話なのに、柏原さんの恋人でいられないというだけで、何も手につかなかった。
「本当に、馬鹿みたいですよね」
今さら、こんな話をしても困らせるだけだとわかっているのに、どうしても諦め切れない。どれだけ好きだと言っても、恋しいと伝えても足りない。
こんなに好きなのに、この人が帰る部屋で待つのは俺じゃないなんて納得できない。
「ごめんなさい」
なんでこんなに困らせるようなことしかできないのか。バスの時もあんな嫌な態度で。好きだから、気持ちが溢れてうまく立ち回れない。
潔く身を引けばせめて、同僚としては認めてもらえたかもしれない。今は避けられてもまた、普通に食事くらいはしてもらえるようになっていたのかもしれない。
どうしていつもいつも、手が届かなくなってからああすれば、こうすればと悩むしかできないんだろう。
泣きそうになって息が震えた。
「すみ、ませ……」
手で目を押さえる。
柏原さんがぼそりと口を開いた。
「僕の何がいいの」
「……え」
涙を拭ってから顔を上げる。柏原さんは俺を見ていたが、瞳は暗かった。
「年より老けて見えるし、すぐ保身に走る。それに、君を泣かせてばかりだ。好かれるようなところなんてないよ」
「あなたより優しい人はいないから……」
「これからは違う。君にふさわしい人が必ず現れる。きっと僕より若くて優しい人が」
「でも、その人はデリヘルだった俺に優しくしてくれたわけじゃない」
柏原さんの目を見て言った。
「横領した過去を打ち明けた時、そばにいてくれたわけでもない。通報されてもおかしくないようないたずら電話を許してくれたわけでも、俺のために会社に働きかけてくれたわけでもない。全部、あなたがしてくれた。
泣きたいほどつらい時、そばにいてくれたのは、いつか現れるその人じゃなく、いつもあなただった」
だからこんなにも好きになってしまった。他の誰でもない。柏原さんだから、苦しいほど惚れてしまった。
「恋人なんて無理は言いません。ただ、俺をそばにいさせてください。周りにはちゃんと、振られたって言います。だから」
また一緒に食事に行きたい。
柏原さんは俺を見つめていた。何か考えるように瞳をさ迷わせ、それから少しうなる。
「僕は、本当に意気地なしで、未だに君がノンケかゲイかにこだわっているし」
ドキッとした。
「そ、それは……」
「そういうことにこだわっていながら、君を手放しがたく思ってる」
「……え」
柏原さんは「ずるいよね」と首を振り、俺を見た。
「ゲイバレは嫌だ。そんなわがままを通すために君を生け贄にして、わざとらしく距離を取って……僕は、いっそ君が僕を嫌ってくれたらと願ったよ。
何て勝手なやつなんだってね。その方が楽だった。嫌われたなら仕方がない。僕はこういう人間で、何も変えられない。だから、諦めるしかないんだって聞き分けのいいふりをして納得したかった。でも、素っ気なくするたび、君が傷ついた顔をするから……そのたび、好きだと言われている気がして……酷い話だけど、安心もしたんだ。
こんな自分勝手で、臆病な僕を君が好きでいてくれることに」
俺は柏原さんが口を閉じたのを見て、ゲイだというのは嘘だと伝えた。
「寺岡を言いくるめたくて……。すみません」
「じゃあ、やっぱりノンケか」
柏原さんはなにか考えるように俺から視線を外した。
「俺は、確かにノンケですけど……それでも、あなたを好きになった。一番つらい時そばにいてくれたあなただから」
俺は柏原さんの手を取った。
「昨日より、今日の俺の方が、あなたを好きなんです」
初めて買われた日にこの人を好きだと気づいてから、日に日に気持ちが強くなった。止めることもできないほどに。
「素っ気なくていいです。ただの部下以下でも構いません。今日の俺より、明日の俺の方があなたを思ってる、だから、いつか……」
口が乾く。一度言葉を切った。柏原さんは黙って聞いていてくれる。
「いつか、俺を恋人にしてもいいと思う日までそばにいてください」
心臓が暴れていた。頭の奥が痺れる。今までこんな気持ちになったことはない。
ノンケだから、なんてそんな理由で手放さないでほしい。
「明日もそばにいて……」
柏原さんの手を握った。強く願うように目をつぶって。
だが、遠くから近づいてくる声に気づいて、慌てて手を離す――離そうとした。いつの間にか、手が柏原さんにしっかり握られていて、離れるには振りほどくしかなかった。
「か、柏原さん……」
抗うように名前を呼んだが、くんっと手を引かれた。引っ張られた俺が一歩前に出ると、柏原さんが俺の肩に顔を埋めた。
何が起きたのかわからなくて、俺はただ、横を通りすぎていく家族連れを見ていた。両親と二人の子ども。兄弟だろう子どもたちは魚を見てはしゃいでいる。それに気をとられて、親二人も俺たちのことは見ていなかった。
その家族が通路の角を曲がり、声が遠くなって俺はやっと動くことができた。そっと、柏原さんの背中に握られてない方の手を回した。
柏原さんは「ありがとう」と低く囁き、荷物を床に置いて背に回した俺の手を握った。指を絡めてくる。
ありがとうと言った柏原さんの声を何度も頭の中で繰り返す。その声は涙でわずかに震えていた。
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