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 安達に「好きだったんだよね」と給湯室で打ち明けられた。  社員旅行はなんだか、夢の間に過ぎた出来事のようで現実味がない。初日にあんなことがあったせいで、二日目は上の空で過ごし記憶は曖昧だった。  安達が俺のことをそんな風に思っていたとは知らなくて驚くと「遠野くんじゃなくて」と笑われた。 「柏原部長のこと、好きだったの。遠野くんと同じで」  でも振られちゃったんだと、悲しげでも怒った感じでもなく呟いた。 「いやさ、私らみたいな有望な人材からのアプローチを断るなんてもったいないよね」 「自分で有望なんて言うか、普通」  安達がむっとする。そのままコーヒーをおごらされた。  それが、三日前……。  今日から、六日ほどの正月休みが始まる。帰る実家もないし、アパートを軽く掃除した後は何もすることがない。俺が部屋にいると唯は金を取りにこないから、頃合いを見て外出しなければならないものの、行きたい場所もないから億劫だ。  毎年、コンビニで雑誌を読んで時間を潰しているが、外に出ると年末年始の浮かれた雰囲気に胸が悪くなる。  それでも今年はまだましだ。寺岡に会わなくてすむし、見ず知らずの男相手にセックスしなくていい。 「……安達も、柏原さんが……」  柏原さんはゲイを隠し続けるつもりらしい。  それなら、思いを寄せてくれる女性、安達とつき合ってもいいんじゃないか。俺が柏原さんの立場だったら、つき合うし、たぶん、結婚もする。結婚した人をゲイじゃないかと疑う人は滅多にいない。  俺の彼への気持ちは変わらない。社員旅行であんなことがあって、期待する気持ちはもちろんある。だけど、それは俺たち二人だけだったらの話だ。  安達に好かれているとわかれば、柏原さんの考え方も変わるかもしれない。  安達を断ったのは、結局、俺への返事を保留にした状態だからで、正月明けに俺は振られるのかもしれない。振られたら諦められるだろうか。  自宅の歪んだ天井を見ながら少し考えた。  そして、諦められないだろうなと結論が出た。  諦められるわけがない。でも、柏原さんの相手が安達なら、それでもいいかと思える。  でも、柏原さんは……多分、俺のことを好きなんだよな。  そう考え始めたらわけがわからなくなって、スマホだけ持ってアパートの外に出た。  そして公道に出た時、凄まじい音と横からの衝撃に襲われ、道路に転がる。一瞬、視界が暗転し、何が起きたのかわからなかった。  転がった後に、遅れて頬に熱を持つような痛みを感じる。  起き上がろうとしたが、目が回って立つことができない。吐き気もする。  うずくまっていると、背中を強く踏みつけられた。 「このホモ野郎!」  その声を聞いてぞわりと毛が逆立つ。 「寺……」 「口開くんじゃねえ!」  爪先が見えた。くたくたの革靴。顔を蹴られる。鼻がカッと熱を持った。 「くそっくそっくそっ!」  立て続けに背を踏みつけられ、胸を蹴られた。  ドンッと音がして息ができなくなる。鼻血でむせる。えずいていると、腹を蹴り上げられた。堪えきらずに吐いた。 「死ねっ、死ね!」  無茶苦茶に蹴られる。ドンドン! と体に音が響く。どこからそんな力を出しているの一蹴り一蹴りが重く、殺意を感じてぞっとする。  息さえまともにできず、本当に死ぬと思った。殺される。寺岡に蹴り殺されるなんて絶対に嫌だ。  まずいと思って足の下から抜け出そうともがくと、寺岡が足を持ち上げるのが見えた。  汚い靴底。  顎に命中した。首がミシリと鳴る。  ぐわんと頭の中が揺れた。  こんなところで死にたくない。最後に見るのが、寺岡の靴だなんて嫌だ。そんな思いも滲んで、目の前が真っ暗になり、音も遠ざかった。  そして再び目を覚ました時に見えたのは白い天井。近くからぴ、ぴ、という機械音がする。ややして自分に呼吸器がつけられていることに気づく。腕には点滴。体は怠く、頭が鈍く痛い。  ゆっくり部屋の中を見る。個室だった。  アパートの誰かが通報したのだろう。  目をつむり、ぼんやりした眠気に体を任せているとドアがスライドして開く音がした。  医者かと思い、顔をそっちに向けて驚いた。 「……唯」  久しぶりに顔を見た。ずいぶん髪が伸び、大人っぽくなった。顔は父親に似ている。ただ、口や輪郭は母だ。本当に美人だった。  金を取りに来てあの現場に遭遇したのだろう。  唯はほとんど無表情でベッドまで来て「入院の手続きしてきたから」と言った。 「ありが――」 「馬鹿じゃないの」  唯が睨む。  黙っていると「あんな頭が変なやつに貢いだりして」と言われ、どきりとする。謝ろうと口を動かすが声が出るより先に唯が続けた。 「何なの、意味わからないんだけど。あいつ言ってたこと本当なわけ?」 「え……」  どこまで聞いたのだろうか。  あの時の寺岡の様子は明らかに異常だった。記憶は混濁しているが、白昼堂々襲ってくるなんて正常な考えがあればやらない。あの状態では何を言ってもおかしくはなかった。  不安で心臓を縮こまらせながら俺が「多分、そう」と答えると唯は「借金あるの?」ときつい口調で聞いてきた。  どうしてそんなことを聞かれるのかわからず、つい黙ると、続けて「私の手術費、足りなかったって本当なの?」と聞かれて何でそんなことを知っているのか不思議に思った。  これは寺岡には言ってない。 「ど、して、それ……」 「どうでもいいでしょ。本当なの?」  唯はじっと俺を見つめる。なぜか、睨むのとは違う、責めるような、何かを訴えるような目。  俺は、肉親のことは覚えていない。ただ狭苦しい場所に閉じ込められていた記憶だけ。俺の家族は、遠野の家の人たちだ。真面目な母と、優しい父。  そして、かわいい大切な妹。  今の唯を見ていると、苦労が報われる気がした。 「なに笑ってるの」  唯がぐっと眉間にしわを寄せる。 「ねえ、なんで怒らないの」 「怒る……?」 「パパもママも、あんたばっかり贔屓して……私には、何の期待もしてなくて……ばぁばだけだった、優しくしてくれたの。ばぁばと……あんただけ」  唯はぐっと口をヘの字に曲げた。その顔が小さい時のままで、懐かしくなった。 「あんたが、死んじゃうかと思った」  両親は俺に特別、目をかけてくれた。多分、血の繋がりがなかったから。今ならわかる。二人とも不安で強い責任を感じていたのだ。  自分の子どもとして、俺を育てることを。俺と実の子を兄妹にすることを。  俺にはあまり両親から叱られた記憶がない。だが、唯は違う。祖母に甘やかされているという思いから、両親は唯には厳しく接していた。でもそれは、ちゃんと愛していたからだ。  口汚くならないように。優しさを持つように。幸せになれるように。叱ることで二人は唯を大切にしていた。  愛されない子どもが、親からどんな風に扱われるのか、俺はよくわかっている。何をしても見向きもされない。何もしていなくても暴力だけは振るわれる。石ころみたいに……。  みんな、唯を好きだった。大好きだった。その愛を感じるにはまだ、唯が幼すぎただけで。 「お前が、いい子なのはみんな、わかってた。母さんも、父さんも。大丈夫。だから……ほら、泣かなくていいだろ」 「泣いてない」 「うん」 「泣いてないもん……っ」  唯が自分の服を掴み、ぽろぽろ涙をこぼし始めた。 「ごめっ、ごめんなさい……お兄ちゃん」  泣きじゃくる唯に、辛うじて動く方の手を差し出し、服を掴む手を撫でた。 「……怒ってないよ、唯」  大好きだよ。  なかなか素直になれないのは、唯の性格からわかっていた。父の葬儀で一悶着あってからは、尚更頑なになっていた。  あれは、多分、俺が泣いたせいだろう。俺が泣くとは思っていなかったに違いない。  唯の不器用な甘え方だと頭の片隅ではわかっていたはずなのに。それなのに、俺は……。  唯は俺に拒まれたことがショックで、余計に頑なになってしまった。  唯はただ、寂しかっただけだ。  俺が家を出た後も、父は俺を優先しがちで唯は優しくは構ってもらえなかった。その寂しさを認めてもらいたかっただけ。ただ、それだけだったんだろう。  不器用な唯。  俺の、かわいい妹。  泣いてしゃくりあげる唯に「大丈夫」と言いながら、疲れが押し寄せてきて、俺はゆっくり眠りに入ってしまった。

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