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 警察から事情聴取されたのは翌日。十二月三十日のことだった。被害届は出さないつもりだったが、唯に強く言われて出すことにした。  裁判になったらまた金がかかる。そう思っていたら何かを感じたらしい唯が「私だって貯金してるし」と頬を膨らませた。 「え?」 「馬鹿じゃないんだから貯金くらいするでしょ。自分の病気のこともあるし……。もらったお金だって遊びで全部散財してたわけじゃないから……」 「足りなかったんじゃ……」 「そんなわけないじゃん。イラついて、当たっただけだし。……お金に困ってるって知ってたら、馬鹿なこと言わなかったよ」  知らなかった。同時にそうだったのかと納得する。  金が足りないと電話やメールが来ることはたまにあった。それを聞いても、そうか、としか思わなかった。手術が成功して病状が安定した今、子どもの頃我慢していた分まで遊ばせてあげたかった。だがなかなか金の工面ができず、足りないと言われるたびにずっと申し訳なく思っていた。  唯は唯なりに、考えていたらしい。  そういえばもうすっかり大人だ。俺が思うより妹はしっかり成長している。そう、ちゃんと大人になってくれた。  苦労はしたし、やってはいけないことまでしたが、それでも治療代を用意して本当によかったと思う。 「ねえ、こういうことって弁護士とかに相談した方がいいんじゃないの?」 「相談っていっても……。弁護士なんて必要ないんじゃないか?」 「だって裁判とかよくわからないのに」  唯に服を掴まれた。 「でも、雇うにしてもどこがいいのかわからないし」 「知り合いにいないの?」 「いないよ」 「じゃあさ、衛に聞いたらいいじゃん」 「まもるって誰だよ」 「はあ?」  唯の声がやたらに大きくて、慌てて人差し指を立てた。 「唯」  咎めるように呼ぶと、唯はむっとして「衛は上司でしょ?」と言った。上司と聞いてはっとしたが、わけがわからなくなる。  まもるで思い当たるのはただ一人――柏原衛だけだ。 「な、なんで柏原さんのこと知ってるんだ」  二人は面識がないはず。しかも、名前で呼んでいるなんて。 「前にアパートで会って名前覚えてたから……。救急車呼んだ時、あんたのスマホから衛にも電話したわけ。ここの病院だって、経営に衛の知り合いがいたから個室にしてもらえたんだよ」 「知らないぞ、そんな話」  少し声を荒らげただけで脇腹がズキズキする。  呻いてベッドに横になると唯がこれみよがしにため息をついた。 「あばら折れてるんだからさあ……」 「あのなあ。普通、言うだろ。会社の上司が兄の見舞いに来てたら」 「ってか、 見舞いに来たら普通は顔出すでしょ? 出してない方がびっくりなんだけど。部下の妹に症状聞くだけなら毎日来なくてもよくない?」  唯に言われて確かにと思い、口を閉じるしかなかった。毎日来ているという話も信じられない。 「衛が被害届出した方がいいって言ったんだよ。警察とのやり取りも手伝ってくれたし。知らなかったの?」  黙っていたのを肯定と受け取った唯が「変なの」と肩をすくめる。 「まあ、でも。最初は冴えないおっさんだなって思ったけど、衛超いい人だね。年末年始なんて忙しいはずなのに」  俺の怪我は全治二週間。入院期間は後、二、三日だと医者から聞いていた。仕事始めにはギリギリ間に合わない上に、退院できてもあばらはまだくっつかないだろう。  ばたばたしているうちに年が明けてしまい、久しぶりに唯と正月を迎えたのはいいが、相変わらずの「唯節」にドキッとする。やっぱり、見た目ほどのしとやかさはない。  まあ、それは病気がちで入院ばかりしていたせいで、いじめられやすかった彼女の盾のようなものだから仕方がないのかもしれないが。 「唯、年上の人を呼び捨てにするのはどうなんだ」 「衛はいいよいいよーって言ってくれたもん」  柏原さんがそんな軽い返事をするだろうか。  唯は腕を組んでむっとする。 「信じてないの?」 「まあ、だめとは言えなさそうな人だとは思うけど……」 「私さあ、衛みたいな旦那さんほしい」 「は?」  つい素で返してにらまれた。  唯は聞いてもないのに話を続ける。 「優しいし、だらしなくないし、ちょっとおっとりし過ぎだけど、そこが何かいいって言うか。でも、私はダメなんだって」 「……どうして?」  ダメな理由はわかっているが、唯の軽いとは言え告白めいたものを柏原さんがどう断ったのか気になる。  唯は「えっと」と少し考えて「妹だから」と言った。 「確か、そんな感じに言われた」 「俺の妹だから?」 「お兄ちゃんって衛に嫌われてるの? お見舞いに来ても顔出さないし」 「微妙な話なんだよ」  唯にはごまかした。  でも、唯が「何かいい」と言ったことには賛成だった。柏原さんはおっとりしている。たまにどんくさく感じることもあるが、そこが憎めない。 「私さあ、衛に怒られたの」  妄想に耽っていると、急に唯が呟いた。 「怒られた?」  唯はどういう意味かわからないため息をついて話を続けた。 「超、超怖かった。私も悪かったから文句言えないけどさあ……」  愚痴ではないらしく、唯はじっと俺を見つめる。何年も目を合わせない、それどころか最近は顔すら合わせていなかったせいで妙に緊張する。 「……そんなに見つめてどうした」 「見つめてたわけじゃないし」  唯がふいっと顔を背ける。 「ただ、衛って本当にお兄ちゃんのこと嫌いなのかなって……」 「え?」 「だって症状が気になるのはわかるけど、普通さ部下のお見舞いに毎日来る? 顔も見たくないくらい嫌なら、来なくていいんじゃないの?」  それは確かにその通りだった。  だが、だからと言って嫌われていないと言えば、じゃあどうして顔を見せないのかと言う話になる。返事に迷っていると唯は軽く手を叩いた。 「衛のこと呼んでみようよ」  名案のように言うが、それは困る。  俺はつい手で耳の裏を擦った。  体は拭いてもらっているが、ギプスや包帯もあり、ずっと風呂に入っていないせいで何となく体がにおう。そんな状態で柏原さんに会うなんて絶対に嫌だった。 「そう言えば、何で怒られたんだ?」  背中にじっとり汗をかきながら話をそらす。  唯は何か言おうと口を開いたが、すぐに閉じた。 「その話はしない」  ぼそりと言って俺の様子を伺うように見た後、椅子から立ち上がった。 「飲み物買ってくる」  早口に言いながら俺の返事も待たずに病室を出ていった。  考えなければならないことが多くて頭が痛くなる。唯のこともそうだが、弁護士や、柏原さん。柏原さんは唯に何を言ったのだろう。  俺が秘密にしていた話を唯が知っていたのは、多分柏原さんが話したからだろう。それは構わない。こうなった以上、どのみち話さないわけにはいかないことだった。俺が気になるのは、兄の俺が言うのも変な話だが、唯はちょっとやそっとじゃ自分の意見を変えたりしない。  その唯が、辛辣さはさておき、俺に心を許してくれるなんて少し前なら考えられないことだった。  超怖い、だなんて、どんな風に言い聞かせたのか。想像できない。抜けているところはあるし、どんくささも、なくはない。静かな人が怒ると怖いというやつだろう。  ただ、それが柏原さんの魅力だった。  上司としても、男としても。年より老けて見えると本人は気にしているが、思慮深さを感じさせる落ち着いた顔つきをしていて、俺は好きだった。  多分、安達も。  病室の扉がノックされた。そろそろリハビリに呼ばれる時間だった。  返事をするとややあってから扉が開く。  開いた扉から顔を見せたのは唯だった。 「もう」  戻ってきたのかと声をかけ損ねる。  理由は唯の後から入ってきた人のせいだった。  柏原さんが気まずいような笑顔、という曖昧な顔で扉のところに立っている。 「来てもらっちゃった」  とんでもない事後報告だ。  俺は体が強張るのを感じた。会うのが嫌なわけではない。ただ、身だしなみなんてあってないようなもので、風呂はおろか髭だってろくに剃れていない今、本当に勘弁してほしかった。  だが、唯は「じゃあ、飲み物買ってくるから」とさっきと同じことを言って、扉のところにいる柏原さんを部屋に引っ張り込み、自分は出ていってしまった。 「あの、椅子あるんで座ってください」  少し迷ってからそう声をかける。  柏原さんは「じゃあ」とベッド脇の椅子に座った。近くに来ただけで、熱の塊がそこにあるかのように俺の頬が火照る。 「あ……手続きとか、色々、その、ありがとうございました」  さっき唯から聞いた話を思い出し、礼を言う。  柏原さんは「嫌じゃなかった?」とどこか自信なさそうに聞いてくる。 「まさか。助かりました」 「よかった」  何がどうだというわけでもないのに、何となく気まずい。会話がもどかしく感じる。柏原さんも居心地が悪いのか、腰を浮かせ椅子に何度も座り直す。  俺は布団を引き寄せた。臭くないか不安だった。唯は何も言わないが、においには慣れると聞くし、毎日会うから気づかないだけかもしれない。  変に緊張していると、柏原さんのスマホがバイブレーションを鳴らした。尻ポケットから取り出す。見るつもりはなかったが、画面には「春也」の名前。  前ほどの羨望はないが、その名前で胸がざわつくのは変わらない。  柏原さんはちらりと俺を見てから「いい?」と聞いてきた。ここで電話に出るつもりなのだろうか。  目の前で春也との会話を聞かされるのは嫌だったが、電話を切れとも言えず、うなずく。  柏原さんが電話に出た。  そして、いや、とか、うん、とか短い返事だけして電話を切った。  いつの間にか布団を握る自分の手を見ていて、柏原さんが座り直す音を聞いてそっちを見た。目が合う。柏原さんが苦笑いした。 「春也がね、見舞いに行きながら君と会わずに帰る僕に怒っちゃって……。今も帰るならブランドアイス買って来てだって」  断ったけど、と、下を向いて笑う。  伏せられた目。優しげで、素朴。目が離せなくなり、ぶしつけなほどその顔を見ていた。  柏原さんは目を伏せたまま、深く呼吸する。 「君が生きていてくれてよかった」  ぽつりと言葉を吐く。 「そんな、大袈裟な」  驚いてそう言うと、柏原さんは首を振った。 「君はわからないかもしれない。でも、運ばれてきた当初は、本当に酷い有り様で……」  まるでその時の苦痛を自分が味わったかのように、柏原さんは顔を歪めた。 「君の妹に八つ当たりみたいに怒鳴った。唯ちゃんが悪いわけじゃないのに」 「でも、そのお陰で久しぶりに唯と話せました」  そう言っても柏原さんは納得しなかった。 「君の怪我は、僕が半端に口出ししたせいだ。だって、僕がしたことと言えば、君を矢面に立たせて、寺岡の復讐心を駆り立てたことくらいで……」  そんな風に考えていたなんて知らなかった。  ここに来なかったのはただ、単純に唯に事情を知られたくないからだと思い込んでいた。  慌てて口を挟む。 「その話は元はと言えば、俺が横領したせいです。だから、柏原さんに責任はないですよ」 「君が好きだ」  ごく当たり前のことのように、何の脈絡もなく紡がれた言葉に時間が止まる。 「え……」  今、何て言われた? 誰が、誰に言ったんだ。  柏原さんがもう一度、同じく「君が好きだ」と呟く。それを聞いてやっと頭が働き始めた。 「……初めて面と向かって言ってくれましたね」  大袈裟に喜びすぎないように言った。 「いいんですか、俺、知ってるんですよ。安達のこと」 「僕はゲイだ」 「それはそうですけど」  俺といても長く苦しむだけなんじゃないか。どんな過去かはわからない。でも、俺とつき合うことになれば、名実ともにゲイになる。今ならまだ、ノンケの皮を被れる。安達には悪いが、でも、そうやってうまくやっている人もきっとたくさんいる。柏原さんだけじゃないはずだ。  幸せがすぐそこにある。隠す必要がない幸せが。 「安達とつき合った方が、きっと障害も少ないと思うんです。俺だって嫌だけど、でも、その方があなたには」 「楽、だろうね」  柏原さんが、俺が言おうとしていた言葉をさっと盗む。 「っわかっているなら」  好きだと言ってもらえた。それだけでも十分じゃないか。  現状、ゲイだと知られずに生きていくには女性と結婚するのが一番の近道だ。安達なら頭もいいし、回りに左右されない強さがある。仕事もできるし、柏原さんのよさをわかっている。  だから俺が後押ししなくちゃならない。  柏原さんは俺を好きでいてくれる。それは嬉しい。飛び上がるほど嬉しくて、ちゃんと言葉で伝えてくれた事実があれば、俺は柏原さんの幸せを心から応援できる。  俺が未練を見せれば、柏原さんは幸せを掴み損ねてしまう。 「安達はいいやつです。仕事で何度助けられたかわかりません。気遣いもできるし、ちゃんと自分がある」  ここから押し出す言葉を並べた。 「安達もあなたを好きだから」  きっと尽くしてくれる。彼女なりの調子で。二人の結婚生活は用意に想像できた。あのソファベッドで二人ならんで……。  不意に、柏原さんが俺の手を握った。 「それは君も同じじゃないかな」  握った俺の手を引き寄せ、キスをする。  かあっと体が熱くなった。同じく、目の奥もじわりと熱を持つ。 「や、止めてください」  手を引っ込めようとした俺を逃がさずにしっかり力を込める。 「あのね」  柏原さんの語気が強くなる。 「安達は部下だ。特別な好意もないのに妻になんてできない」 「だけど」 「安達にも迷惑だろう。そういうことを嫌がる子だしね」  それはそうだ。確かに、わかっている。  わかっているが、それは、だって、だけど。  頭の中の考えがまとまらず、柏原さんを見ると、ふっと目を柔らかく細めた。  その顔が好きだと思った。この人の人柄がわかるから。優しくて聡明で、穏やかで。言葉にしつくせない。  好きだという気持ちが溢れそうになる。半分諦めて、自分の奥底に押し込めていたそれは俺が思うより大きくて怖い。 「家族を捨ててでも、僕は恋がしたかったんだ」  何も言わずにいる俺に柏原さんが言う。恋がしたかったと恥ずかしげもなくささやく口元。さも当たり前のように。 「僕と恋人になってほしい」  だめかな、と、微笑む柏原さんに迷いは感じられなくて、俺は自然と自分が笑うのを感じた。

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